あれっ。なんでだっけ? 今、まさに私は教科書のお手本のような「我に返る」を体感しているところ。
バスタブの縁にかけた腕で頬杖をついたエルが、瞬きもせずに私をじっと見つめている。髪を洗おうとしている裸の私を、だ。
「ねえ、あんま見ないでね。恥ずかしい」
「あいつが来ないか見張ってます」
極力見えないように、可能な限りバスタブの近くに座って背中を向けてはいるけれど、多分無駄なんだろうな、と思う。エルの住む場所のバスルームはどこも広くて、見晴らしが良い。こんなに余裕のある空間でこそこそ隠れながら髪や身体を洗うなんて難しい話だ。 大体なんでこうなったんだろ、とぼんやり考えを巡らせてみるけれど、ぼうっとした頭はなんだか逆上せ始めていて、ちっとも役に立ちそうにない。
あいつ。あいつって。あいつって誰だっけ。 あっ、そうだ、オバケの事だ。
「この辺見てて。視界の隅っこで見張っててよ」
「それでは足元から這い上がって来た場合に対処できません」
「這い上がるって。あっ、こわい!」
上品な白いタイルを伸びてきた長い長い黒髪が足首に絡みつくおぞましい図を想像してしまい、ゾッとして振り返ると、意地悪な顔で笑っているエルが居る。それは彼が完全に面白がっている時の顔で、私はと言うと、怖いやら恥ずかしいやらでどんな顔をしていればいいのか分からない。
そうだ、私は怖かったんだ。 今更のように思い出した。 怖い映画を観て、ひとりでお風呂に入るなんてとてもじゃないけれど無理な心理状態になってしまった。シャンプーを洗い流した後、目を開けたら何か恐ろしいものが目の前に居そうだなんて本気で考えてしまった私が懇願した結果、ここにいる彼。
バスタブの外で冷え始めた身体が震えて、頭の中もすっきりしてくる。冷静になって思うのは、何考えてんだこのバカ、とあの時の私に言いたいということ。つまり、今の私は怖いより恥ずかしいの方がずっとずっと上回っているって事みたい。
「あーなんか。オバケなんていないね」
「はい、そうですね」
「私、どうかしてたね」
「あなたはいつもどうかしてますよ」
ホラー映画なんて、本当は楽勝なのに。 それも、THEオバケです。みたいなあからさまなやつ、さすがに私もわかりますよフィクションですね。ってスタンスで観られるはずだったのに、どうして今日は、あんなに怖かったんだろう。
気味が悪くて恐ろしかった。夢に出てきそうで、目を瞑るのが嫌だって思った。でも、いくら怖かったからって一緒にお風呂に入ってくださいなんて。あり得ないよ。何を血迷っていたの。
「こわいこわいこわいこわいこわいこわい」
「えっ!何それ。こわい」
突然、呪いのように繰り返されたエルの言葉に恐怖を感じて顔を顰めて見せると「あなたの真似です」と楽しそうに口角を上げた彼が、腕を伸ばしてシャワーのノズルを手に取るのが見える。
「私、そんな風に言ってた?」
「言ってました。それで、自己暗示にでもかかったのではないですか。バカですね」
「ほんと、なんてバカ」
でも、なるほど。そういうことか。 それなら、すごく、納得だ。
夏の暑い日に暑い暑いと文句を言うと余計に暑くなるし、冬の寒い日に寒い寒いと文句を言うと余計に寒くなるというあれの原理ってことだよね。
こわいこわいと言いすぎて、今考えるとそんなに怖くもなかったあの映画が、妙に恐ろしくて嫌なものに観えてしまってたってことか。人間の心理ってシンプルなんだなあ、と感心していると、いい加減冷え切った身体が悲鳴を上げたみたいで「ハクション!」と、それはそれはまぬけなくしゃみになって、飛び出してしまった。
「もう観念してさっさと済ませてください」
「きゃ!」
「このままでは私が逆上せてしまいます」
「ちょ!エル!わあ!」
面倒くさそうに言い捨ててシャワーのコックを捻ったエルが、持っていたノズルをこっちに向けてお湯をかけてきた。突然の水圧に、冷たくなってた脚がびっくりしたように跳ねたけれど、すぐにそれは心地良い温度になって、身体をゆっくり温めてくれる。
逆上せそうなんて、嘘。 全然平気な顔してるくせに。 エルはいつも、素直じゃないけど優しい。 そして意外と、面倒見がいいよなあ、って思う。
こんな時、いつも私はお喋りな口が開いてしまわないように努めて頑張る。 言葉にしてしまうのがもったいなくなるの。 そんな素敵な気持ちになる。誰にも言わないで私だけの宝物にしたいって思うから。
「わかった、わかった、ちゃんと洗うよ!」
手を伸ばして取り上げたシャワーが、コックを戻す直前、微かに傾いて軌道を逸らす。飛び散った雫で黒い髪が濡れた。顔にかかったお湯を拭うように長い指で目元を擦った彼の仕草は、まるで猫みたい。 白い湯気の向こうから見える綺麗な瞳は、どういうわけか、優しさで満ちているように見える。 私には、いつもそう見えるんだよ。だから、大好き。
「恥ずかしいからエルは、目、瞑ってて」
「えー」
「何それ」
「あなたの真似です」
こんなに綺麗な人なのに。 わざわざ微妙に可愛くない顔で真似っこされて、釈然としない。でも、なんだか似てるのかもなって思った。悔しいけど、こんなの笑っちゃう。可笑しくて、嬉しくて、愛しくてちょっとムカつく妙な気分。堪えきれずに声が出てしまって、エルも笑った。
私きっと、甘えたかったんだなって、思った。
一緒にお風呂は想定外だったけれど、彼とこんな風に向かい合って笑いたかったんだ。こうなることを望んで、もしかしたら初めからそう仕向けていたのかな。あの映画も、自己暗示も全部全部、実は計算だらけの私の作戦だったのかも。
だって今。気が付けば、怖いなんて気持ちはすっかり消え去ってしまって、恥ずかしいさえも虫の息。今や私は、バスタブに引っ掛けるように置かれている腕を掴んで隙あらば引き寄せて抱き付いてしまいたいなんて過激なことを考えちゃってるんだもの。
ああ、だめだめ。危ないぞ。 これじゃあ、本当に逆上せてしまう。
「よし、私、シャンプーします!」
「はいどうぞ」
「やっぱりちょっとは怖いから、何か歌ってて」
「嫌ですよ」
● ● ●
それから結局、お互いの裸を散々凝視しまくった私たちがこのままおとなしく眠るなんてこと、できるわけもなくて。
ドライヤーの風を当てあって遊んで、なかなか乾ききらない長い髪に痺れを切らせた私が振り向いて抱きつくと、勢いで押し付けてしまった唇を柔らかく受け止めたエルが、ゆっくりと包み込むような甘いキスにして返してくれる。焦れったいような、永遠に続いて欲しいような、ふわふわした気分になるエルのキスだ。
気持ち良くてうっとりしているうちに踏ん張りがきかなくなった脚がバランスを崩しそうになる。ふらりと揺れた身体を腰からぎゅっと抱き寄せてくれたエルのおかげで、倒れ込まずに済んだ。
「フラフラじゃないですか」
「ううん、平気。ごめんごめん」
きっとお互いにやる気満々ではあったけれど、それを隠すこともできずに元気な男子高校生のようにがっついてしまった自分が恥ずかしくなってしまう。 照れて俯いていると、前髪を払い除けたエルがおでこに可愛いキスをくれた。
「今日はもう大人しく寝たほうがいいですね」
「寝ないよ。意地悪で言ってるでしょ、それ」
「ばれましたか」
顔を上げると、やっぱり意地悪な顔で笑ったエルが、面白がって遊んでるみたいな雰囲気で頬っぺにキスをしてそれから小さく耳元で囁いた。
「寝かせませんよ、今更」
今、一番聴きたかった声で聴こえた。 耳の奥が痺れるような、甘い甘い、色っぽい声。 大きな背中に腕を回して思い切り抱きしめれば、私の世界は目の前の大好きな人だけでいっぱいになる。 こんなのもう、どんなオバケにも居場所なんてない。どこにもない。
私が仕向けたこの夜だから こわいものなんてひとつもないよ。 もちろんホラーなんかじゃ、終わらせないから。
「ねえねえ。私、ほんとはバカじゃないのかも」
「はあ」
「なんか、計算高くて嫌な女でごめんね」
「…ここ、笑うところですか?」
神様、どうか間違えないでね。 後から夢に出すのなら、 オバケじゃなくて、こっちにしてね。
Fantastic Horror Show
|