深夜、誰もいないはずの家のどこかから女の啜り泣くような声が聞こえる。更には何かが倒れたような物音がして、主人公の男はベッドサイドに在ったランプとゴルフクラブを持って物音の正体を探すため歩みを進める。何故そんな場所に都合よくゴルフクラブがあるのか。疑問に思ったがフィクションとはそういうものだ。
「あー、失敗した、これ怖いね」
「そうですか?」
「うん、観るんじゃなかった。後悔した」
長い睫毛を瞬かせながらこちらを見遣る瞳はどことなく滲んでいるように見える。後悔しているというのは本心らしく、自分の恋人がこんな作り話を半泣きになりながら怖がる女なのだという事実を再認識する。 たった今、目の前の画面に映し出されているのは大袈裟な効果音と有り得ない心霊現象という組み合わせの、お約束の分かりやすいホラー映画だ。
「こわいこわいこわいこわいこわい」
「呪われそうな独り言はやめてください」
「わーん、こわい!」
世の中には科学的に説明できない不可思議な現象が存在するが、幽霊だの悪魔だのの存在が証明されているわけでもない。そういった事象を排除した立場で物事を考えている身ではあるが、あり得ないと言い切れるものでもないのだろうくらいには思っている。 もしも、そういった理不尽な存在を認めざるを得ない状況に直面したなら、私はひっくり返って驚き絶望するに違いない。しかし、現在のところその機会は訪れていないため、やはり彼女に同調して恐怖を感じることは出来そうもなかった。
「あーだめだめ、行っちゃダメ。絶対なんかいるのにバッカだな〜!」
抱え込んだクッションに鼻から下を埋めた彼女が、映画の中の人物に一方的に語りかけている。当然、相当滑稽な絵面だ。
「なんでこう、夜中に電気もつけずに怪しい場所をウロウロするのかな!」
「ウロウロしなければ話が進みませんから」
「それはそうなんだけどさ、こういう時は潔くもう寝ろよ!って思わない?私なら絶対そうする」
「私は気になるので様子を見に行きますね」
「えっ、ほんと?エルって意外とガッツあるね!」
「ガッツ…」
怖いのならばこんなものを観るのはやめてしまえばいいとは思うのだが、彼女はやめない。最後まで見届けなければ余計に怖いのだと言う。
そして私は私でそれなりに楽しめるのだ。 隣で膝を抱え怯えたような目をして画面に釘付けになる彼女の姿は面白く、どことなく可愛らしく感じてしまう。いつのまにか左手に絡みついていた細い指は熱く心なしか汗ばんでいて、このささやかな拘束が思いの外心地よかったりするのだ。
この平和な国では日常生活において恐怖に駆られる出来事などそうそう起こるものではなく、もちろん彼女がそんな状況に陥ることを望んでいるわけでもない。でも、こんな風に怯えた恋人に一方的に縋り付かれるのは案外気分が良く、つまり、満更ではないのだ。
「うんうん、ですよねー、ここが怪しいですよね、私も最初からそう思ってたよ」
「名推理ですね」
「だってほらドアが閉まってる!昼間は空いてたのにな〜おかしいな〜嫌だな〜妙に怖いな〜」
「何故突然稲川淳二に」
「怖いんだもん。あああ、開けちゃうよ」
彼女が指差すドア。それが開け放されていたというシーンは、真剣な目つきで口を開けた彼女の横顔を見ていたため残念ながら見逃していたが、問題はない。
映画はクライマックスを迎え、とうとう主人公が謎の心霊現象の全貌を目の当たりにする時が来たらしい。盛り上がるBGMにまんまと踊らされた彼女の独り言もクライマックスだ。
「はー、ついに出る。ついに出ます!」
主人公が物音のする部屋のドアに手をかけた瞬間、まるでその場に居合わせたような緊張感を漂わせながら、無意味な宣言をした彼女の息を呑む音。細い指には力が入り、痛みを感じるほど強く握られる。 しかし意を決して開かれたドアの向こうには何もない。
「出ませんね」
「あれ、ほんとだ」
画面に映る主人公と同じような顔をして彼女が脱力した次の瞬間だ。 わざとらしい効果音とともに現れた髪の長い女の霊を見るや否や「ぎゃー!やっぱり出た!」と叫んだ彼女がクッションを投げ捨てて飛びついてきた。揺れた髪からは甘いシャンプーの香り。自由になった手でそれを梳くと、柔らかい毛先が掌を擽ってこぼれ落ちていく。
「あれ?もう終わるのかな」
実体を確認したことにより、次第に平常心を取り戻し始めた彼女が身動ぎする。 そこで初めて、私は自分が危機的状況に陥っていることに気が付いた。
離れたくない。 突然、そんなことを思ったのだ。
このタイミングで、この馬鹿馬鹿しい状況で、こんなに滑稽な恋人の姿を見て何故そうなったのか。解らない。解らないが、身体を起こそうとする彼女を咄嗟に阻止したいと考えた自分の心理が、下心のみで身体に命令信号を送ったことだけは分かった。
背中に回した方の腕を動かし腰を撫でると、そのまま凭れ掛かる様に体重が預けられる。 「終わってなかった!」「来た来た逃げて取り憑かれる!」と騒いでいる彼女の言葉から推測するに映画は盛り上がっているようだが、当然こちらはもうそれどころではない。今すぐにでもそのうるさい口を塞いで黙らせて、いっその事押し倒して無茶苦茶にしてしまいたい気分なのだ。
「やっばいよ、オバケ超怒ってる…!」
「はあ。怒ってますね」
体温の高い柔らかい身体を押し付けてすり寄ってくるのは彼女の方だ。 望んではいるが頼んだ覚えはない。 つまり、自制する必要などないとは思うけれど、それでも悔しいのは、その温度も、行為も、彼女の意図したものではなく、全てが無意識で捧げられているという事実の所為だ。
全くその気のない彼女に一方的に欲情しているなど、今、この状況では負け以外の何物でもない。
己を客観視しながら、平静を保つ。 この幼稚な男は、いつでも欲しがられたいのだ。 求められ、懇願されたうえで手に入れたい。 我ながらなんと厄介な性格だろうと思う。
目線を落とすと、小さく震える長い睫毛が見える。 瞬きの回数、呼吸の深さ。勝算はありそうだ。 髪で隠れた首筋に触れて、確信する。 この可愛い恋人は、必ず私の思い通りになる。
「こいつ、しつこいねー!もういいじゃんね」
「ええ、全く同感ですね」
エンドロールまで20分。 あとは素数でも数えている他ない。
● ● ●
「ねえねえ、お願いがあるんだけど」
「はい」
「あのね、一緒にお風呂、」
「入りましょう。仕方ないですね」
「本当?誰も来ないか見張っててくれる?や、多分。ううん、絶対そんなの来ないとは思うんだけど、念のためにっていうか」
「はい。念には念をですよねわかります」
「絶対バカにされると思ったのに。エル、優しい!」
「隅々まで見張っててあげますよ」
「神様か!」
彼女には、私を喜ばせる才能があるに違いない。
+ One story
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