「そういえば、エルに大事な話があった」
洗濯を終えた彼女が、突然思い出したような声を上げて戻ってきた。 ダイニングテーブルを挟んで向かい合うその顔を眺めながら目の前のホットケーキにメイプルシロップをかけていると、大体いつも飛んで来る「かけすぎかけすぎ」というストップが一向にかからないことに気付く。
本日の日付は4月1日。 なるほど、これから始まるらしい。
エイプリルフールに悪戯好きの恋人が嘘を吐かないはずがないことは分かっていたため、私は右手のメイプルシロップをテーブルに置いて、心の準備をする。彼女の口から飛び出すであろう、きっとあり得ないほど態とらしい大げさな嘘に騙される準備を、だ。
「タロくんがさ、最近喋るのよ」
「は?」
「タロくんだよ、ほら、大家さん家の隣の」
「あの柴犬が、ですか」
「そう、そう。一昨日急に喋り出したんだって」
想像以上のクオリティに整えたはずの心の準備が一瞬にして無駄に終わる。 こんなくだらないネタにどう乗ればいいかなど見当もつかないし、何より彼女は深刻な顔をしている。まるで国家機密を取り扱うような慎重さで周囲を見渡し誰もいないことを確認してから打ち明けられたこの話を、まさか本気で言っているのではないかという仮説にたどり着いてしまい、一種の恐怖を覚える。
「まさか」
「そのまさかなの。私も聞いちゃったんだから」
「聞き間違いでしょう」
「2回言ったの。もうほとんど人間!大事なことだから2回言ったんだよ、これはガチだよ間違いない」
「はあ、大事な話というのはそれですか」
ううん、ここからが本題。と、テーブルに両手をついて身を乗り出していた彼女が落ち着きを取り戻すように椅子に座り、声を潜めて話し始めた。
「人間の言葉を話す犬なんてすごくすごく珍しいでしょう?もし、バレて大事になって悪い研究者とかに攫われてタロくんが実験とかに使われたらどうしようって私たちは思ってて」
「私たち、とは」
「タロくんのおばちゃん、大家さん、私」
「ですよね」
よく道端で何十分も話し込んでいるお馴染みのトリオだ。きっとこの話題で大層盛り上がったのだろうと想像しながらどうしたものかと考える。
彼女の様子を窺うに、もしかしたらこれはエイプリルフールとは関係のない話なのかも知れない。難しい表情を浮かべて瞬きをする彼女は、信じたくはないが本気の顔をしているのだ。 そもそも嘘の吐けないバカ正直な恋人が、この私に不安を覚えさせるような絶妙な演技ができるはずがない。嘘を吐くにしても、もう少し分かりやすいマシな嘘を吐きそうなものだとも思う。この話の終着点はどこだろうとぼんやり考えていると、フォークを持っていた手が攫われて、小さな両手にギュッと包み込まれる。正面から上目遣いでこちらを見上げる彼女が、助けを求めるような声で言った。
「ねえ、エル。どうしたらいい?」
「どうしたもこうしたも」
「このまま普通に楽しく暮らしたいんだよ」
「普通に楽しく暮らせばいいじゃないですか」
「でも、タロくん喋るしさあ!」
「喋ってないと思いますよ」
「だよね!信じないよね、普通は信じないよねえ」
● ● ●
かくして、朝食を済ませた私は彼女に連れられ、今、現場にいる。 玄関先で飼い主に了解をとった彼女の手には骨の形をした餌。背中に隠して戻ってきたが、私に見えたその物体を鼻の利く対象者が見逃すはずがない。庭先に繋がれている柴犬は、おやつをもらえる気配を察知し、尻尾を振りながら彼女を追ってやってきた。
「タロくん、おはよう」
「喋らない」
「ちがうちがう、これからなの。もう、エルはせっかちさんだなあ」
隣に座り込んだ彼女が、私を見上げて眉を顰め口を尖らせる。これから私は一体何を見せられるのだろうか。大体予想はつく。そしてきっと予想通りだろう。そんなことを思いながらも、実は頭の中ではある真理を見つけていた。
「タロくん、おすわり。よし、えらいねえ」
犬と向かい合う彼女が、ニコニコと笑いながら茶色の毛を撫であやすように褒めている。私は傍でその様を黙って眺めている。
要するに、私は彼女のこんな一挙一動を目にすることについて、悪くないと感じているということだ。わざわざ靴を履いて向かいの家の庭先にまでやってきたという事実がその証拠と言える。交際する男女は、時として無意味なやり取りで無駄な時間を過ごし、それをしあわせとするものなのだ。彼女と出会わなければ、一生知り得なかった心理であり、これが真理だ。
「聞いてて、もうすぐだから!」
「…はあ」
「タロくん、ちょうだいは?」
犬の目の前に餌を差し出した彼女が、透き通る声で命令すると、むにゃむにゃと唸るように、あう、あう、と声を上げた犬。 その姿を目にして、黒目がちな瞳が興奮で輝く。全くもって、思った通りの展開である。
「ほら!ね?」
「何が、ね?ですか」
「今の喋ったじゃん!ちょうだいって」
「私には聞こえませんでした」
「タロくん、もう一回。ちょうだいは?」
再びあうあうと唸った柴犬に「天才か!」と叫び声をあげて骨を与える彼女。尻尾を振りながらおやつを齧っている犬は、目的を果たした後はもう二度と喋らなかった。否、一度も喋ってなどいない。ただただ私はいつもの思い込みの激しい恋人の姿を目の当たりにした、それだけのことだ。
「お分かりいただけただろうか」
「分かりましたよ。今日も世界は平和なんですね」
「あれ!お分かりいただけてないな、これ!」
おかしな人だと思う。ちょっと危ない人だとも思う。しかし、目を丸くして、困ったように首を傾げた恋人の反応に、言い様のない充足感を覚えている自分がいる。それを悟られまいと視線を逸らせば、抜けるような青空に、淡い色彩が目に入った。昨夜車の中では気付かなかったが、すぐ側の公園に植えられた桜が開花を始めているようだ。もう、春だ。この季節は彼女の思い込みの激しさが致命的に悪化するのも仕方がないのだろう。
「タロくんはちょうだいしか言えない、それでいいですか?」
「うん、そう。今の所はね」
「人前で餌をやらなければ済む話ですね」
「え?」
「私は秘密を守りますし、タロくんが喋りだす前に餌を与えてしまえば誰にもバレずにこれからも楽しく暮らせます。よかったですね」
「た、確かにそうだね!」
どこまで本気で言っているのかという件については、もうどうでもいい。そう信じたければ信じていればいいのだ、命が関わる問題でもあるまいし。 私は彼女の誤認を改めることを諦め、この話題の終着点への最短ルートを選ぶことにする。
「天気がいいですね。桜でも観て帰りませんか」
「えっ、お花見?いいね、それ!」
振り返って公園の桜を確認した彼女が、嬉しそうに笑って立ち上がった。あっさりと誘いに乗ってきた彼女にとって、今回の騒動がその程度のものだったのだと解り、密かに安堵する。恐ろしく無意味な時間を過ごした。それでも気分は穏やかだ。この笑顔の前では、いつでも強制的にそうなってしまうのだから、文句を言う気も起こらない。 風に攫われた髪を耳にかけた彼女はそれから大きく深呼吸をして、たった今気付いたかのように言った。
「もう春なんだね」
「もう4月です」
「そうそう、…あ!今日って!」
「はい。この一連の全てがエイプリルフールということでいいですよね」
「うん?どういうこと?」
「なんでもないです」
当たり前のように絡められた腕に寄りかかる心地良い温度が、細かいことはどうでも良いと思わせる。 今、自分の人生の中で流れている、このあたたかい時間こそが、嘘のような話だと思った。
● ● ●
それから、少し歩いて辿り着いた木の下。 目をきらきらさせた彼女が、悪戯を思いついた子どものような顔をして言った。
「やっぱさ、形式だけでもやっとこうよ」
「エイプリルフール、ですか」
「うん。ほら、嘘ついて、嘘ついて」
「急に言われても。お先にどうぞ」
「あーあ、エルとお花見なんかつまんない、つまんないつまんない!」
つまんないなあ、と言いながらけらけらと笑う彼女の腕に引き寄せられた時、風が吹いて花びらが舞う。日差しの中では飴色に輝く長い髪が揺れると甘いシャンプーの香り。視線を落とせば、血色の良い唇は弧を描き、切り揃えられた前髪の隙間から白い額がのぞいていた。 微かに紅潮した頬に理由もなく触れてみたくなるような、細められた目を縁取る睫毛が瞬く様から目を離せなくなるような。こんな私に吐くことのできる嘘など、ひとつしか思いつかなかった。
「うるさい、ブス」
「えー!ひどすぎる!」
春の恋人
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