moment_zzz







ハロー地獄の一週間。
月末恒例の大量の仕事を抱えて恋人の住むスイートルームに転がり込んだ私は、大きな窓に映る素敵な夜景を眺めて15秒だけ現実逃避をしようと試みる。ところが、ソファを背もたれにして地べたに座り込んだこの角度からは真っ黒な空しか見えなくてがっかり。世の中そんなに甘くはないのよ、と誰かに言われたみたいな気分になった。


「え。エル、もう終わったの?」

「はい」

「わーありがとう、ほんと助かった」


素敵な夜景の代わりに正面の窓に映るのは、空欄だらけの書類に頭を悩ませ変な顔をしている私と、その隣で暇そうに脚を抱えてソファに座っている名探偵。
シール帳や工作の準備の雑用にはすっかり慣れてしまったようで、最近では黙って置いていても手伝ってくれる。今日も「またこれですか、最悪です」なんて文句を言いながらそれらをさっさと片付けてくれた彼は、現在優雅にティータイムらしい。

優しい恋人のおかげで、残された仕事はもう私が頑張るしかないものばかりだ。ありがとう、ありがとう、でも羨ましい、そのお茶会誘ってほしいなと期待しながら振り返って本物のエルを見つめた時、私は突然、気が付いた。


「あれ。エル、すっごく髪伸びてない?」


一瞬だけちらりとこっちを見たエルは、すぐにクッキーのお皿に視線を戻して首を傾げる。特に自覚はないみたい。

気のせいかな?
いやいや、気のせいなんかじゃないない。
確かに、いつもの彼の姿を思い浮かべてみても、起きた時のまま何も触らない無造作な髪型はいつだってあちこちが楽しそうに跳ねていて、どれが正解なのかは分からない。でも、やっぱり、それにしても長いと思う。耳をすっぽりと隠す黒い髪はこんな感じじゃなかったもん。


「ちょいと失礼」

「…やめてください」

「わー!やっぱり違う!もっさりしてる!」


ソファに飛び乗って、疑惑の頭を両手で掴んで触ってみると、明らかな違和感。ちょっと硬めのしっかりした髪の毛は、目で見るよりも明らかに質量を増していて、私の記憶にあるエルの頭とは全然違っているように感じる。手の感触がそう言っている!


「そういえば、最近切ってないですね」

「いつもどこで髪切ってるの?」

「ここで」

「えっ!訪問美容師さん?」

「いいえ。ワタリが定期的に切っています」


当たり前みたいな顔をして言うエルのこの回答がなんとなく予想できてた自分が可笑しくなる。
美容師さんなんてわざわざ呼ぶような人じゃないし、慎重で秘密主義のこの名探偵がよく知りもしない他人をここに入れているなんてちょっと考えられない。でも、それでも、それにしても、だ。
なんだかエルの引きこもり癖って半分ワタリさんの所為のような気がしてきたよ。


「ワタリさんって出来ないことあるの?」

「さあ。大体何でも出来るんじゃないですか」


ものすごく適当な回答をするエルの髪をまじまじと観察して、癖が強いというよりはとてつもない直毛なんだな、と今更のように気付く。いつもの無気力な無造作ヘアーに切るのはとっても難しそうだ。



「すごいね、綺麗に切るね、ワタリさん」

「しかも早いですよ。5分です」

「わ!早いね!いいないいな」


私も今度前髪を切るときはお願いしてみようかなあ、なんて話をしながらエルの伸びた襟足の髪の毛を弄んでいた時、突然、手首を掴まれてびっくり。
それから、目を合わせて告げられた彼からのお願い事にはさらにさらにびっくりしてしまった。


「切ってくれませんか」

「へ!」

「適当でいいです。はいどうぞ」

「うわあ、すごいチャレンジャー!」


反対側の長い腕が伸びて、テーブルの上に開けっ放しにしてたペンケースの中からハサミを探り出す。そしてそれを私の指に引っ掛けた名探偵は、どうやら冗談のつもりはなく、本気でこの前髪切りすぎ常習犯の私にお願いをしているらしい。もちろんそのハサミは美容師さんが使う髪を切るための高級なハサミではなく、画用紙や折り紙を切るための安物の文房具だ。


「指摘されて突然鬱陶しくなってきました」

「それにしてもだよ。よく私に頼もうなんて思いついたね」

「ワタリが今ここにいない以上、あなたに頼むしかありません。集中できなくなりました」


おやつのクッキーを食べるのに集中も何もないよなあ、とは思ったけれど、何だかとっても面白そう。
テーブルの上に広げた書類は、もうとっくにどん詰まりでこれ以上睨めっこしても一文字だって進みそうにない。何分も前から諦めるきっかけを探していた私は、もちろん、何も考えずにその話に乗ってしまったのだ。


「ふむふむ、どう料理してやろうか!」

「血が出るところは切らないでくださいね」

「オッケーオッケー。ご注文は?今日はどんな感じに仕上げましょうか」

「いつものでお願いします」


くるりと向きを変えて、カリスマ美容師になりきった私に身をまかせるように後頭部を晒した彼。ソファの上に膝立ちになってハサミをちょきちょきさせながら、そのいつものやつが難しそうなんだよなあと独りごちると「じゃあお任せで」と返事が返ってくる。

窓ガラスに映る夜の空とおんなじ色の髪の毛は、指で梳くとさらさらと流れてとてもきれい。切ってしまうのはもったいないなと思ったけれど、男の人にはそういうのはないのかな。
きっと、無頓着なエルのことだから、自分の髪型なんてどうでもいいんだと思う。
ちょっとくらい変になっても、平気な顔して「すっきりしました」って言ってくれるに違いない。


でも、ちょっと待てよ。
それって、私の方は大問題じゃない?


うっかり手を滑らせて坊ちゃん刈りにしてしまったらどうしよう。ううん、多分きっと、絶対そうなるよ。だって、男の子の髪なんてどこからどうやって切ったらいいのかさっぱりだ。お母さんに髪を切ってもらった幼稚園の子は大抵坊ちゃん刈りになってるもん。

それでもエルは別にいいって言ってくれそうだけど。私は坊ちゃん刈りのエルとちゃんと顔を合わせて話をすることができるの?笑うなんてダメだよ。伸びて元どおりになるまで耐えられる?そのうち罪悪感と自己嫌悪で泣きたくなってもそんな資格はないんだよ。そうなったとしたら、悪いのは全部全部、私なんだもん。


「だめだ、やめよ。絶対失敗する」


一瞬にしてあらゆる最悪の想定をしてしまった私には、このハサミを入れる勇気なんて1ミリも残されていなかった。
快諾されたはずの依頼がたった数十秒の間にいとも簡単に却下されてしまったのだから、依頼人の彼は当然驚いた様子で文句を言う。


「まさか、怖気付きましたか」

「だってだって、私、エルを台無しにしてしまいそうなんだもん」

「別に髪型なんてどうでもいいので気にしなくていいです」

「気にするよ、ていうか気になるよ」

「髪はすぐ伸びます」

「エルは知らないかもしれないけどね、切りすぎた髪が元どおりになるまでってすごーく長い時間に感じるものなんだよ。あれ、もしかしてこれが相対性理論ってやつ?」

「全然違います。何を言っているんですか」


訝しげな表情を浮かべたエルにえらく真面目に返されて恥ずかしくなる。
そうだ。相対性理論とは、もっとなんか壮大な、宇宙とか重力とかが関係するすごいやつだ。私の前髪が元通りになるまでの体感速度については何にも関係ない。でも、焦ってバカなことを口走ってしまったけれど、これでバカにされて話題が変わってくれるなら後悔なんかしない。胸を張ってバカにされよう。そう思ったのに「もう何でもいいので早く切ってください」と急かされ始めて、もう、どうしよう。


「今くらいの髪の長さが素敵だよ。カッコイイ!」

「嘘ですね。もっさりしてると言いました。あれは悪口です」

「わー!違うよ違う、もしかして気にしたの?」

「はい。深く傷付きました」


もしも。もしも、本当に私の不用意な言葉がエルを傷つけてしまったのだとしたら、何をしてでも謝らなくちゃとは思うけれど、この顔は嘘だ。彼とそれなりの時間を付き合ってきた私には、そのくらいはもう分かる。そして、私がこんな場面ではりきった場合、見事なズッコケホームランになることだって、完全に分かりきったお約束なんだよ。笑えない結末になることが目に見えてる。

どうしてもできないと思った私は、ハサミをテーブルに置いて両手を上げて降伏のポーズ取ることにした。


「意気地なし」


そうだ。私なんて意気地なしだ。
なんとでも言っておくれよ。
意地悪な声で吐き捨てられた挑発的な台詞にも一切反応できない私を振り返ったエル。
そして、両手を上げて正座をした意気地なしをじいっと見た彼が諦めたように息を吐いて、次の瞬間何をするかと思いきや。テーブルの上のハサミに手を伸ばしたからさあ、大変。嘘でしょ、自分でやっちゃう気だ!鏡も見ないで?このばかやろう!


「待って待って!ワタリさんにやってもらお?」

「いいえ、待てません。頭が重くて死にそうです」

「さっきまで普通に元気に生きてたじゃん!」

「自分でも不思議ですが、もう手遅れなんです 」

「手遅れ?」

「今すぐ何とかしなければどうにかなってしまいそうなんです。切ってくれないのならせめて止めないでください」

「わー!」


長い指に引っ掛けられたハサミを慌てて取り上げると、ガリガリと爪を噛んで不機嫌そうな顔をするエル。まるで子どもだ。
きっとこれまで、髪が伸びて鬱陶しいと自覚したらその瞬間にお抱えのカリスマ美容師(ワタリさん)に切ってもらえるというセレブみたいな生活を送ってきたに違いない。
どうにかしてあげたいって思うけれど、こればかりは止めなかったら絶対後悔する。

けれど、このままワタリさんが帰ってくる明日まで鬱陶しい頭のせいでお菓子を食べるのにも集中できない生活を強いるのもなんだかかわいそうで、何か他にいい方法はないかな、と必死で考えた頭の中に、苦し紛れの代替え策がひとつ。
よし、これだ。これしかない。


「わかった!いいこと思いついた」


とにかく、恋人の暴走を食い止めなければと焦った私は、胸のあたりにぶら下がっていた自分のおさげの髪を高速でほどく。そして、ビーズの飾りがついたそのゴムでエルの前髪を集めて結んでみたら、あららびっくり!たった3秒で出来上がり!


「あれ…?これがベストアンサーじゃないか!」


いい。
とっさの思いつきとは思えないくらい、いい。
想像以上に、いい感じだ。
彼女の持ち物の可愛い髪ゴムで前髪をちょんまげにする男子。まるで、少女漫画では鉄板の憧れのオシャレ男子みたい。
いつも隠れてるおでこが全開で、印象ががらりと変わって見える。
薄い眉と目の下の隈の所為で人相がいいとは言えないけれど、私の目にはとてもとてもチャーミングに映ってる。やばい。これは、休み時間の教室の片隅で恋が始まった時みたいな新鮮なときめきだ!


「エル、かわいい…!」

「はあ?」

「好きです、付き合ってください」


思わずポロリと告白してしまった私に、目を細くして疑ったような表情を作ったエルはますますダークサイド寄りになってしまったけれど、やっぱり可愛い。どうしたって可愛い。何この可愛い生き物!

「何を言っているんですか。とっくに付き合っています」と、またしても真面目に返されて、私は本気で照れる羽目になってしまったのだけれど。あーなんかほんともう、ごちそうさまでした。それだけです。




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