2月14日。 用事を終えてソファの右隣に飛び乗った竜崎に、はいどうぞ!とチョコレートを手渡すと、畏まったラッピングを不思議そうに見つめるふたつの目。
「何ですか、これ」
「チョコだよ」
「チョコレート」
辞書ほどのサイズの箱を訝し気に横から見て下から見てた竜崎は、眉間に皺を寄せて、まるで迷宮入りの謎に向き合う名探偵の顔だ。 全く予想していなかった彼の反応に、私は何だか拍子抜け。確かに竜崎が素直に喜んでくれる姿なんてなかなか想像できなかったけれど、それにしてもだよ。今日という日に恋人からのチョコレートを受け取って、こんな反応って、ある? 私の顔をちらりとも見ず、箱から目を離さない彼は、中に爆弾が仕掛けてあるとでも思ってるみたいな振る舞いだ。
「さあさあ、開けてみて」
両手を捧げるように動かして促す私の言葉の軽さが信用できなかったのか、チョコだって言ってるのに疑わし気な様子を隠しもしない。構わず、ほらほら早く、と急かすと、慎重な手つきでリボンをほどいた竜崎は、まるで危険物を取り扱うかのように身体から離した机の上で、箱の蓋に手を掛けた。 なんだこれ。完全に爆発物処理班の人! もう、本当に爆弾を仕込んでやればよかった!
「バーン!」
「あ、本当にチョコレートでしたね」
そうして蓋が開かれた瞬間、絶妙のタイミングで爆発音を演出してあげたというのに、中身がただのチョコレートだって分かった彼は、突然大声を出した私には一切触れない。これぞ恥の掻き損ってやつ!
箱の中身がお菓子だと判明した途端、躊躇いなんて一切なくなった竜崎が、綺麗な長い指でつまみ上げたチョコレートを口の中に放り込んで、首を傾げた。
「あなたが作ったんですか」
「うん!どうかな?マカロンって初めて作ったんだけど、失敗してない?」
「美味しいです。食べますか」
「ううん、美味しいならよかった!ハッピーバレンタイン!」
白い喉を動かしてごくんと飲み込んだ竜崎が、そこで初めてなるほど、と納得した様子を見せる。 同時に私にも、ああそっか。と彼の怪しい一連の行動の理由が分かって、思わず吹き出してしまった。外国人の竜崎は、日本のバレンタインデーがはじめまして、なのでした。
「2月14日は、日本中の女の子が好きな人に手作りのチョコレートを贈って愛の告白をするんだよ」
「驚きました。日本中の女性がわざわざカカオから焙煎するんですか」
「あ、ごめん違う!そこまではしない!」
正しくはメーカーさんが作ってくださった美味しいチョコレートを加工してお菓子を作ったものを贈る、で、手作りじゃなくて、デパートとかで高級なすごいチョコレートを買ってプレゼントする人もたくさんいるんだよ、と説明する。
「義理チョコは買ってあげる人が多いと思うよ」
「義理のチョコ」
「そうそう。好きな人じゃないけど、お世話になってる男の人にあげるチョコね」
「辛辣な呼称ですね」
義理だなんて、確かにね。もっと言い方あるよね。 あとはね、男女関係なく好きな友だちに贈る友チョコっていうのもあるし、自分へのプレゼントに高いチョコを買う人もいるんだよ、と付け足すと、マカロンを口の中に放り込んだ竜崎が「最早バレンタインは関係ないですね」と呆れたような表情で言った。
こうして一緒にいると、私たちは全く違う世界を生きてきたんだなあって思うことがたくさんある。
竜崎は私にとっては外国人で、私だって竜崎から見ればそうだ。 違う言葉を喋って、違う文化の中で、違う景色を観て生きてきた私たちは、きっとまだまだお互いを知らない。日常生活のちょっとした行動に「あれっ?」って思うことがたくさんあって、そういう些細な違いに気付くたびに、こうして同じ温度の同じ部屋で同じように笑いあえる今が、奇跡みたいな素敵なことに思えるんだ。
私と彼の生きてきた世界では、バレンタインの当たり前も少し違ってたみたいで、竜崎が今もぐもぐしてるチョコが消滅したら、彼の知ってる当たり前を教えてもらおうと思ってたその時だった。
「これは、何チョコでしたか」
突然投げかけられた言葉にびっくりして、口の中に待機させてた質問をうっかり飲み込んでしまった。 気がつけば、私が贈った箱の中はすっかり空っぽだ。
ソファに乗り上げた脚を動かして私の方へと向き直った名探偵は、お得意の推理を放棄したご様子。 ここまで説明して、私の想いが分からないなんて、彼はそんな鈍感な人じゃないはずだけど。 でもこれは、私の口から告げてこそ、真実になる素敵なこと。なるほど、きっとそういうことだよね。
「本命チョコでしたよ。ビビったか!」
「ビビりました。では、どうぞ」
「ん?」
「聞きますよ。愛の告白があるんですよね」
え。えー、この空気で? とは思ったけれど、数分前に本命チョコと愛の告白をセットで紹介したのは他でもない私だ。 だったら私には告白の義務がある。よし、ここはちゃんとばっちり言ってやろうじゃないの。 ところが、意を決して空気を吸い込んだ瞬間に視線が絡まると、突然緊張したように、言葉が喉の奥で突っかえそうになってしまった。
「あ、あのね、竜崎」
「はい」
ぱっちり開いた大きな目が、長い前髪の向こうから私を捉えて離さない。 瞬きも忘れたような不思議な色の瞳を見つめていると、どきどきして、なんだか恥ずかしくもなってきて、とてもじゃないけど上手く出来なさそう。失敗する、と言葉が飛び出る直前に、そう思った。
「えへ。好きだよ」
「…心がこもってませんね。悲しいです」
「えっ。こもってるよ、本気本気!」
「ニヤニヤしてます。やり直し」
ひらりと手のひらを上に向けた竜崎が、どうぞと次を促してくる。まさかやり直しを要求されるなんて。 可笑しく思いながらも、こんなの絶対引き下がれない。竜崎が唸るような可愛い告白を提出しなければって、そうは思うのに。
「好き好き、竜崎が大好き!」
「さっきの方がマシでした。もう一回」
「すーきーだーよー!」
「…本当ですか」
「本当ですよ!何?疑ってるの?」
「やるたびに嘘くさくなるのは何でしょうね」
こんな雰囲気になってしまっては、私の渾身のウィンクやジェスチャーもまるでふざけているようにしか見えないみたいで。虚しいけれど仕方がない。やってる私もふざけてるような気分だもん。
「えっ。ねえ、これって何のオーディション?」
「これではヒロインの役はお任せできませんね」
「わー!そんなの誰にも譲りたくないよ!」
竜崎がこんな冗談話に乗ってくれたのが楽しくて、それからひたすら「好きだ、好きだ!」と叫び続けた結果、合格ラインはどんどん遠くなるばかりで。こうなったらお互い顔を見合わせて笑い出すしかない。 もう、何が正解なの!と審査員長の肩を小突くと、斜め上を見て少し考えた竜崎が言った。
「公園での告白です」
「公園。私が初めて好きって言った時?」
「そうです。あの時の鬼気迫る感じが出れば月影先生も白目なんですけどね」
「あは!竜崎が月影先生なの?」
そういえば、この前家に遊びにきてくれた時、本棚の漫画を珍しげに見てた彼が「ガラスの仮面」を読み散らかしていたなあと思い出す。それから込み上げてくるのは、不思議なあったかい感覚。
あの日の告白、私の家に並ぶ漫画の話。 これは全然違う世界を生きてきた私たちが出会ってから生まれた、ふたりにしか分からないこと。そんなことに気づいて、なんだか擽ったい気分になる。 竜崎を好きな私と、私を好きでいてくれる竜崎は、きっとこれからそういうたくさんのものを共有していけるんだもんね。
だから、もう戻れない。 こんなに嬉しい気持ちをくれる、竜崎の隣を知らないあの頃の私には、戻れないよ。
「あんな告白はもう無理だよ。できない」
「それは残念ですね」
言葉とは裏腹に、ちっとも残念そうには見えない面白がったような顔をしている竜崎を正面から見て、あの鬼気迫る気持ちを思い起こそうと頑張ってはみたけれど、やっぱり無理。不可能だ。
「だって私、竜崎の彼女なんだもん」
あの日の私は恋した相手にふられるつもりで想いを告げたんだよ。今はもう、あの瞬間と同じ気持ちになんて絶対になれない。 この想いが、迷子にならずにあなたまで届くんだってことを。ちゃんと受け取ってもらえるんだってことを、知ってしまったんだから。
ずっとずっと夢みてた今を、幸せをくれる大切な存在。はっきりとそう認識して見つめ直した姿は、やっぱりどうしたって愛おしくて、大好き。 こんなに好きな人に出会えたことを。こうして一緒に居られることを、本当は世界中の人たちに大声で叫んで伝えたいくらいだよ。 自然と湧き出てくるようなこの想いは、今まで知らなかった温度をしていて、溢れるほどの質量で私の小さな胸の中をいっぱいに満たしている。
「好きだよ、竜崎。好きすぎてどうしよう」
心の底から思っていることを言葉にすると、それだけじゃ足りないなって判断した身体が、勝手に動いて白い頬っぺにチューをする。 爪を齧っていた大きな手を捕まえると、至近距離で視線が絡まった。
瞬きの瞬間に長い睫毛が落とす小さな影にも気付くような近いこの場所から竜崎を見つめていると、どうしようもなく嬉しくなる。こんな風に、私の顔がゆるゆるになってひとりでに笑ってしまうのは、何もかも全部他の誰でもない、竜崎のせいなんだよ。
「私、今、手に負えないくらいハッピーなの」
だからどうか、上手に出来なくても大目に見てね。 嘘くさく見えても、丸ごと全部信じて欲しいの。
「にやにやしちゃうけど、好きでいてね」
正直な気持ちを告白した後、数秒の沈黙。今更みたいに照れくさくなってきてリベンジウィンクでごまかすと、きょとんと目を丸くした竜崎が無防備な口元を釣り上げて笑った。 それから、捕まえてた左手がするりと逃げて、そのまま後ろにまわされたと思ったらゆっくりと引き寄せられる。目の前に影が落ちて、優しい感触。 下唇を柔らかく挟み込んだほんの2、3秒がスローモーションのように目に映った。 かわいい音を立てて離れたキスは、甘ったるいチョコレート味。私たちだけが知ってる恋の味、なんてね。
「恐ろしい子」
にやりと笑った形の良い唇から聴こえた低い声が、私のすべてを肯定する。今すぐ抱き付いてその首すじに顔を埋めてしまいたい衝動も、うっとりするような次のキスを期待してる浅ましい下心も、踊り出してしまいそうなときめく気持ちも全部全部。竜崎は丸ごと受け取ってくれるでしょ?
「ヒロインは、絶対私で決まりだよね」
「はい、それでいいです」
その細めた美しい瞳に映っているのは、何を隠そう、世界で1番ハッピーな女の子だよ。
● ● ●
しばらくして、美味しい紅茶を淹れて持って来てくれたワタリさんにも日頃の感謝を込めたチョコを手渡すと、大量の砂糖を溶かしていた竜崎が「それ、義理ですよ」と言い放ったもんだから焦ってしまった。
「違うんですか」
「そうだけど、そうじゃない!」
もう、言い方!義理だなんてひどい!と喚いている私と「日本ではそう呼ぶとあなたから聞きました」と飄々と正論を振りかざす竜崎のバカバカしいやりとりを見たワタリさんが、珍しいことに声を出して笑っていた。
ミス・バレンタイン
|