彼女の眠りは、いつも深い。 正しく睡眠を取る日は、朝にならないと目を覚まさないし、良く晴れた午後にうっかり目を閉じてしまい折角の休日を台無しにしてしまった、と嘆いている姿を見たのも、一度や二度ではない。
だから、迷った。 夜中に動きがあるかもしれないと睨んでいた事件の連絡が入り出て行こうとしている今、気持ち良さそうに眠っている隣の彼女を起こすべきか否か。
そのまま出て行っても、特に問題はない。 次に会った時に事情を話せば良いだけだし、暢気な彼女は気にもしないかもしれない。 それでも朝起きて、隣にいたはずの人間が居なくなっていれば、多少は心配するのかもしれないという考えが頭を過ぎり『起こしたけど起きませんでした』のポーズをとれる状態にしておくのがベストだと判断した。とりあえず、声だけ掛けることにする。
ささやかに肩を揺らして数回名前を呼ぶと、睫毛が震えて、目を開けた彼女。 思ったよりも簡単に覚醒したことに驚きながら目を合わせると、気の抜けたような顔で「もうごはん?」と呟いた彼女が、すぐにへらりと目を細めて笑う。 残念ながら、ごはんではない。 ぼんやりとこちらを眺めるように瞬きをする彼女は、盛大に寝ぼけているらしい。
「急用が入ったので、行きます」
「きゅうよう」
「はい。もう寝てていいです」
掠れた声が舌足らずなオウム返しで言葉を繋ぎ、意味を持たず空気に溶けた。 とろんとした目つきで見上げて来る彼女の頬に触れると、眠っていた所為かいつもよりも熱い気がする。 まるで子どものようだと思いながら、緩慢な動きで起き上がろうとしたその小さな身体を押し返す。映画の中で優しい両親が子どもにするように、寝癖のついた髪を撫でると、それを受け入れるように瞼を閉じた彼女が、数秒間だけ沈黙する。
「やだな、やだやだ」
そして、髪を撫でていた手が掴まれたかと思うと、その穏やかな表情からは予想できなかった言葉が零れ出した。
「やだよ、行かないでほしい」
「そういうわけにもいきません」
「休めないの?」
「休めません。今、行かなければ」
その返答に不満があるらしい彼女が、絡ませた指に力を込めて、微かに首を振る。 それはとても意外な反応で、驚いてしまった。 まさか、こんなことを言われるとは夢にも思わなかったのだ。
「じゃあ、やめちゃえ。日本にはコナンが居るから、大丈夫だから」
「コナンはいません。作り話です」
「やだやだ、行かないで」
無意味なことだと感じながら、まるで駄々をこねる子どものようなことを言う彼女に答えているうちに、返した台詞のどれもこれもが、今まで口にしたことのない種類の言葉だと気付く。
寝ぼけているのは間違いない。 でもこれは、彼女がいつも押しとどめている本音なのではないかと思えてきたのだ。
「甘えてるんですか」
「だって、寂しい」
「そんなことを言われると、困ってしまいます」
「もっともっと、困ってよ」
突然出て行かなければならなくなったこんな時は、いつだって彼女はあっけらかんとしていた。 あーあ残念だ、と言いながらもへらへらと笑って、「頑張れ頑張れ!行ってらっしゃい!」と、爽やかに手を振る人なのだ。少しくらい名残惜しそうにして見せてもいいのに、憎たらしい。と思っていたくらいだ。 そんな彼女が、こんな幼稚な我儘を口にするのが珍しくて、ついつい笑い出しそうになってしまう。 それは、可笑しいからではなく、愛おしいからだ。
「すみません。また、すぐに戻ります」
「いやだね。ぜったい、離しません」
つい数分前まで夢の中だったというのに、思いがけず強い力で引き寄せられて、彼女の腕の中に捕まってしまう。
「行くなら私を倒して行け」
バランスを崩して倒れこんだ頭が柔らかい胸に押し付けられて、動けなくなる。 両手でしがみ付かれた状態ではあったけれど、彼女の抱擁を振りほどいて起き上がるのは容易なはずだった。それなのに倒して行け、と言われてひどく億劫に感じた。押し付けられたパジャマから、心地良い石鹸の香りがする。こんな彼女を倒してまで行かなければならない理由があるのだろうか、というどうしようもない気持ちが生まれてくるのだ。こうして人は堕落していくに違いない。
「うん、よし。いいこ、いいこ」
「…あの」
「うん、うん、だいじょうぶ、おきてる、ます」
「…おきてるます」
甘んじて拘束を受け入れ、しばらくそのまま彼女に捕まっていたところ、規則正しい呼吸が聞こえ始める。ゆるゆると頭を撫でていた手が止まり、だらりと投げ出されたのを見て身体を起こせば、彼女がこんな状況のまま、再び眠ってしまったことが分かった。
「起きてないじゃないですか」
ぐうぐう、という擬態語が似合いそうなまぬけな顔で眠る彼女の顔を見て、少しだけ憎たらしく感じる。 結局は睡魔が最強なのではないか、と悔しがっている自分に気付いて、妙にくすぐったい感覚に陥った。 憎らしいほど愛おしい、というものが、自分の中ではこの寝顔なのだと確認しながら、我に返る。そして漸く、ああ、行かなければと決心がついた。
「おやすみなさい、いってきます」
密かに独り言ちて、子どものような温度の頬に口付けると、小さく身動ぎした身体が微かに顔を傾ける。 彼女は早速、しあわせな夢の続きをみているらしい。 返答の代わりに、まるで微笑んだような形で唇を空かして、何やらむにゃむにゃ寝ごとを言った。
「この前さあ、起きたらいなくてびっくりした」
思い出したような顔で切り出されたそれが、あの日の出来事を言っているのだということはすぐに解った。 そして、彼女があの一連のやりとりを全く覚えていないことも。
「忙しいのは分かるけどね。いってらっしゃいも言えなかったじゃん」
「はあ。言いたかったんですか」
「そりゃあ、言いたいのが人情ってもんだよ」
「いってらっしゃい、ねえ」
あれだけ寝ぼけていたのだから、覚えていなくても仕方がない。しかし、一体どの口が言うのか、とは思う。まさか自分が、嫌だ、行くな、と駄々をこねて困らせたなどとは夢にも思わない彼女が、まるで私を人でなしとでも言いたげな勢いで批難している。 その故意に作り出された膨れっ面を思い切り捻ってやりたくなるのも、仕方がないことだとぼんやりと思った。
「次からはちゃんと、起こしてね!」
強い調子で主張されたその要望について。 私はNOと答えるしかない。無理な話だ。 この先毎回、あんな風に秘密の本音をだだ漏れにして甘えられてしまっては、たまったものじゃない。 お手上げだ。きっと、私はすぐに堕落する。
「嫌です」
「えっなんで!」
「面倒くさいんですよ、あなたを起こすのは」
こればかりは聞いてやれないのだ。 可愛い恋人を倒してまで行かなければならない場所など、実はどこにもないのだろうと、思い始めてしまっているのだから。
眠り姫の脅迫
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