怒り、悲しみ、絶望、寂寥 全て他人事だったはずだ。
人間の感情として客観的に想像することはできても己が体感することのないものだと思っていたのに、そんな諸々の感情に蝕まれて動けなくなっている夢を見た。
息苦しさに目が覚めて、夜の色が視界に映る。 いつもなら瞬間に動き出す思考が、止まったままだ。
左腕に載っていた頭を抱き寄せると、ころりと寝返りを打った恋人の笑っているような寝顔が見えた。
彼女がいつでも楽しそうに見えるのは、少し垂れた目尻の所為だと思っていたけれど、要因はそれだけではなかったのだと気付く。微かに弧を描く血色の良い唇は、無意識でもそうなるらしい。 思わずそのラインを辿るように指で触れると、生きている暖かさを感じ、絶望を残していた胸の中に安堵が生まれる。 規則正しい呼吸を繰り返す彼女は深い眠りの中にいる。無駄だと知っていながら、長い髪を耳にかけて頭を撫でてみる。何故か衝動的に起こしたくなった。清らかな瞳で私を見て欲しかった。
そして、わたしの望むこの人はこんな夜に限って簡単に目を開けてしまうのだ。
「怖い夢、みた?」
直前まで眠っていたため、照明を落としたこの部屋の中でも彼女の表情がよく見えた。緩慢な瞬きを繰り返したふたつの目が、瞼を持ち上げてこちらを見る。黒い瞳を見つめながら正直に首を縦に振ると、伸びてきた小さな掌が右の頬を滑るように撫で、そのまま静止した。熱いくらいだ。
「宇宙人に侵略された?」
「いいえ」
「大っきい犬に追いかけられたとか」
「違います」
「世界中のケーキ屋さんが閉店しちゃった?」
「恐ろしいですね」
「あ、じゃあ体操服忘れたんだね」
「なんですかそれ」
目覚めて間もない彼女の掠れた声は、会話を繰り返すごとにはっきりと鮮明な発音に変わり、聴き慣れた心地よいイントネーションでこの耳に届くようになる。まるで化学反応を起こしたかのように、この暗く深い闇の空気の性質を変えていく。
「授業があるのに体操服忘れるの。体育の先生めっちゃ怖いから殺されるやつ」
「殺人事件」
「そう、体操服殺人事件」
あれ。なんか超ダサいね、と笑い声を上げた彼女が肩を揺らして目を細める。私は、私の望みを叶えるようなその表情を、眺めて黙っている。ただそれだけのことで、正体の知れない心の澱が消えていくのが分かった。
「で、エルの怖い夢ってなんだったの」
「…もう、忘れてしまいました」
「エルでも忘れちゃったりするんだね」
人ごとのように笑い飛ばす声がして、ずっと触れていた熱い掌が、あやすような動きをする。 その頃には、私の中でもその夢の出来事はもうすでに人ごとで、どんな内容だったかも定かでなくなっていた。不思議な体験だった。
「でももう、大丈夫だよ」
悪い夢に囚われていた思考が動き出した今、繰り返し頬を滑る温度に目を閉じながら、私は何故か彼女と深い関係になって間もない頃を思い出していた。
その頃の私は、恋人にベッドに誘われる理由など、ひとつしかないと思っていた。 泊まりに来る度に「今日は一緒に寝られる?」と聞いて来る彼女も当然、セックスがしたいのだと思っていたのだ。
しかし、いざ彼女の横たわるベッドに入ると、当の本人は満足気にはにかんで、「よし、おやすみ!」とあっけなく目を閉じてしまい、得意技の「のび太」を発動させようとするものだから面食らった覚えがある。 すっかりその気になっている私は怪訝に思い、寝ている場合ではないのだという不満を訴えるために、彼女のふざけた柄のパジャマの中に自ら手を伸ばすしか無くなった。そうすれば、ぱちりと目を開けて当たり前のように抱きついて来る。 つまり、そんな夜は私から何かしらのアクションを起こさなければ、彼女は平気でそのまま眠ってしまうのだ。そして何の不備もなかったかのように目覚め、寝ぼけた顔で「おはよう」と言う。
何もしないで眠るのであれば、わざわざひとつの場所を分け合う必要性など見当たらない。寝ている間も忙しく動き回る彼女は、時に窮屈そうな格好になり、気の毒にさえ思っていたくらいだ。
それでも彼女は、それからずっと同じ夜を過ごす日は必ず同じ場所で眠ることを求めて「一緒に寝よう」と言った。 この人の考えていることがわからない。そう思っているうちに、理由もなく隣で眠る夜が、自然に当たり前になっていた。
あの頃感じていた疑問の答えを私は今、見つけた気がした。
「あなたが役に立ちました」
理由もなく恐ろしい夢を見る。 それを打ち明けて、安心させてほしいと願っている自分がいた。 今、あなたが隣にいてくれてよかった、と心からそう思ったのだ。
「おう、それはよかったね」
「助かりました」
ただ側にいるだけで、私は彼女に救われている。 そんな重大な事実に気付くには、あまりにもありふれたいつも通りの夜だった。
● ● ●
「あー、なんか今度は私が忘れ物する夢を見そう」
「此の期に及んで体操服を忘れますか」
「他にもあるのよ。彫刻刀とか、給食当番のエプロンとか、忘れたら終わりのやつ」
「忘れたら、電話してください」
「え、助けてくれるの?」
「ワタリに届けさせます」
「まさかの保護者頼み」
なあんだ、と不満そうに声をあげた彼女が、「ワタリさんは助かるなあ」と笑いながら身を寄せてくる。首元に押し付けられた頭を撫でるとそのまま落ち着いて、呼吸のリズムが重なっていく。きっとこの幸福に包まれていれば、そのうち何の不備もなく新しい朝が来るのだろう。
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