「ねえねえ、どっちがいいと思う?」
うんうんと唸りながら雑誌を眺めていた彼女が、思案に暮れたような難しい顔のままで私に問いかけてくる。 小さな指が示すページには、普段彼女が身に着けない類のフォーマルなドレス。ちらりと目線を落としたところ、淡い色か、濃い色か、で悩んでいるらしいということだけ解った。
「どっちでもいいと思います。」
「どっちか選ばなきゃ今日のケーキが食べられなくなるとしたら?」
「…脅しですか」
「まさか!彼氏に選んでもらいたい可愛い乙女心です」
100%の笑顔を見せながら平気で私を恐喝する恐ろしい彼女は、雑誌を立てて目の前に広げて見せると、もう一度同じ質問を投げかけてくる。ここに居る限り、彼女に従わなければケーキにありつけないのは事実。私は無力だ。言われた通りに指し示されたページに視線を落とし、内容を吟味する他ない。
「目的と用途によります。あなたが着るという前提でいいんですか」
「ああそっか。ごめんごめん。大切な友だちの結婚式があるから、その時に着ていくドレスをね、探してるの」
「結婚式、ですか」
「そう!もう楽しみ、今すぐ行きたい!」
満面の笑みで肩を竦めた彼女が「待ちきれない!」と足をバタバタさせて身体を震わせた所為でソファが揺れて鬱陶しい。人間図鑑なんてものがあれば、きっと『待ち遠しい人間』のページにはこんな姿が載っているのだろうと思いながら、黙ってその様子を観察していると、「で、どっち?」と回答を急かされる。
「どっちが私に似合うかな」
本気でその答えを知りたいというのなら、それを私に聞くのは間違っている。 私には、彼女が身に着けるものに対しての興味が一切ないため、良し悪しが分からない。 似合っていようがなかろうが、彼女は彼女で、生身のひとりの人間だという事実に変わりないし、スカートの裾から下着がちらりと見えたなら多少はラッキーと感じるが、基本的にはどうでもいいというのが本心だ。 しかし、適当な回答では納得し無さそうな彼女の乙女心とやらを尊重し(目先のケーキを確保するため)とりあえず考えるだけは考えてみることにした。
「私はこっちが好きなんだけど、ちょっと子どもっぽいかな」
「よくわかりませんけど、それならこっちで決まりなのでは」
「そうなんだけどね、これにしたら髪型どうすればいいんだろう。謎すぎる」
「髪型のことまでは知りませんよ」
彼女が好きだと言った淡いピンクのワンピースは、裾が短く絵本に出てくる妖精か何かのようなふわふわしたデザインで、それを着ている姿は想像し易い。普段の彼女のイメージとさほど相違なく、馴染んで見えるだろう。 一方のネイビーのロングドレスは、上品な印象で彼女の好みとは縁遠そうだったが、きっと似合いはするのだろうと思う。彼女の言う通り、歳を考えればこういうものを選ぶほうが無難なのではないかとも思う。
「この2択なんですか」
「え、他にもっといいのがある?ご馳走いっぱい食べられるから楽ちんそうなの選んでるんだけど」
(食いしん坊万歳)
「あ!いま、食いしん坊万歳!とか思ったでしょー!」
人の心を読めるのならば、一刻も早くこの不毛な話題を終えてほしいと思うのだが、もちろん彼女は一向に引き下がる素振りを見せない。
「この中で選ぶならこれ、です」
「フムフム。こういうのが好きなんだ?」
「別に好きとかではありませんが、脱がすならこの首の後ろの紐を解きたい男心です」
「却下。着眼点がおかしい!」
真面目に考えて発言したというのに、即座に却下されるとは。女の言う「どっちがいい?」など、この世で一番ナンセンスな議題だ。
「そもそもあなたが着飾る必要がありますか?」
「あるよー!一生に一度の結婚式だもん。お客さんにはうんとオシャレして来てほしいって思うものじゃないのかな?私はそう思うと思うなあ」
「一生に一度、とも限りませんけどね」
「大丈夫大丈夫!すごく仲良さそうだもん。奥さんは見たことないけど」
「『奥さんを見たことがない』」
「うん、でもすっごい自慢してノロけてくるのよ、あいつ。だからきっとすごく美人だよ。ウエディングドレス姿、楽しみだなー」
「つまり、あなたの友人は新郎ですか」
「そうそう、飲み友だちなの。なんかさ、おめでたいし嬉しいけど、やっぱり少しは寂しくもあるよね。誰かのものになっちゃうのは」
なるほど。 これは予想外だった。彼女の幼馴染だという友人以外に、「大切な」とまで表現するほどの親しい異性がいたなどとは今の今まで知らなかった。 そう思った瞬間、ケーキのために仕方なくとはいえ、真剣に彼女の相談に乗ってやっていた自分が何故だか急にバカらしくなってしまった。
「本音を言ってもいいですか」
「おお、待ってたよ、本音カモン!」
「どうでもいいと思います」
「へ!」
「どうでもいいです。その辺の鉛筆でも転がして決めたらどうですか」
「む!なにその言い方!ひどい!」
ひどいのはどっちだ。 何故私が怒られなければならないのか。 友人の晴れ舞台を祝うために着飾るのは結構だが、自分ではない男のために服を選ぶ彼女の相談に乗る義理はない。わざわざ知らされて気分を害されたこっちの身にもなってほしい。知らないところで好きに選んで勝手に何でも着ればいいではないか。
「あなたの格好なんて気にしませんよ。あなたの友人は花嫁に夢中です。その服で行けばいいんじゃないですか」
「ええ、これパジャマだよ!」
「知っています」
頬を膨らませて怒った彼女に目を遣るとじっと睨み返されるが、ここで折れるわけにはいかない。私は何も悪くないのだ。 絶対零度を自覚するような冷めた視線を注ぎ続けていると、不意に何かに思い至った様子の彼女が、不思議そうに首を傾げる。そして、疑ったような目で私を覗き込んで、突拍子もないことを言い出した。
「あれれ。もしかして。妬いてる?」
「はあ、何を」
「やきもちを、やいてる!」
「まさか」
とは言ってみたものの、彼女の推理は間違いだとは言えない。これまでに経験のないことだったため指摘されるまでピンと来なかった。しかし、『嫉妬している人間』とは、きっと今の自分のような姿をしているのだろうと思えばしっくりくる。
「うん、まさかね!そんなはずないよね!あは」
「笑い事でもないですけどね」
「え。あれ。ほんとに、やきもちなの?」
「腹は立っています」
悔しいことに、まさにそれなのだと気付いた今の私は明らかに不機嫌に見えるだろう。当たり前だ。こんなに面白くない気分になることはそうそうない。 そんな心の内と反比例するように、怒っていたはずの彼女の口元が緩んでみるみるうちに笑顔に変わっていく。この展開は避けたかった。
「なにそれ。嬉しい!嘘、嘘、本当?」
「まだ笑いますか」
「ううん、嫌な気持ちにさせてごめんね」
「言葉と表情が一致してません」
「だってどうしよう、竜崎がやきもちやいてくれる時がくるなんて、夢にも思わなかった。もう、もう、なんて日だ!」
謝罪の言葉にふさわしいとは言えない、目をキラキラさせた彼女が、堪え切れない様子で肩を震わせてニヤニヤしている。これが人間図鑑に載っているであろう『喜びに震える人間』だ。
「決めた。私、パジャマで行く」
「大人としてどうかと思いますよ」
「じゃあ、行くのやめようかな」
「私がそこまで小さい男に見えますか」
「ううん、見えない。だから、嬉しいの」
私をこんな状況に陥れた彼女にへらへらと笑われ、機嫌良く振る舞われるのは面白くない。そして、この嫌な気分の正体が判明した今、これ以上イライラして見せるのは逆効果だということも解ってしまい、癪に障る。知らず知らずのうちに妙なものを焼いてしまった時点で私の立場は最弱だ。不本意極まりないところだが、ここはおとなしく自分が折れるのがベターだった。
「やきもちなんて生まれて初めてやきました」
「ご感想は?」
「最悪の気分です。二度とごめんです」
「ごめんね。私が考えなしでした」
「…慣れないことをしてお腹がすきました」
「うんうん、そうだね、お茶にしよう。ケーキ持ってくるね!紅茶?コーヒー?」
「あなたの好きな方がいいと思います」
「え、私の?」
「似合うと思います。それの話です」
開きっぱなしでソファに置かれていた雑誌を指差して伝えると、思い出したようにそれを目の前に広げた彼女が、首を横に振って、にっこりと笑う。
「結婚式の日はね、私、まっすぐ帰る」
「はあ」
「寝ないで待っててね」
「あなたじゃあるまいし」
「ここに、日本に居てね」
「約束はできませんけど」
「でも私、ドレスはこれにする」
そう言って、悪戯っぽく笑った彼女が指したのは例の、紐のあれだ。 大切な友人の結婚式に着ていく彼女のドレスは、結婚を祝うためでなく、恋人に脱がされるために選ばれた。彼女はそう、言いたいらしい。
しかし、たったそれだけの事実で全てが納まってしまうなどと安直に考えているのだろうか。そうだとしたら、なんと安く見られたものだ。虫が良すぎる。男心はそこまで愚かしく易しいものではない。
「あれ?違う、これだっけ」
「いいえ、合ってます。それです。黒です」
「黒!よし、わかった!うんとはりきってオシャレしておくね!」
…わけでも、ないらしく。 実はこんなに簡単でしょうもないものらしい。
You & 『君を待つ男』
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