『0812 佐藤』
病室に掛けられた綾乃の名前を見て、俺は静かに息を吐いて高鳴る鼓動を落ち着かせる
そして震える手でドアノブに手をかけた
──…ガチャ
「あれ、今日は早いですね…─え…蔵、ノ介?」
そっとドアを開けると、ナースだと思ったのだろうか、綾乃はこちらに笑顔を向けて…俺だと認識すると、ゆっくりと目を見開いた
「綾乃…」
1週間ぶりに綾乃の姿を目にし、何故か喉の奥が詰まった
綾乃は白いベッドの上で、薄いピンクの病服を身に纏っていた
綾乃…なんか、痩せたか──?
俺は静かに綾乃に近付くと、その頬にそっと触れた
「…綾乃、会いたかった」
「っ、蔵ノ介…」
じっと目を見据えると、綾乃は大きく瞳を揺らした
「なんで…なんで言うてくれへんかったんや?」
「…ごめんね?とりあえず、座って?」
俺が絞り出すように問い掛けると、綾乃は視線を外してベッドの横にあった椅子に座るように促した
静かに綾乃から手を離し、俺は言われるがまま椅子に腰掛けた
しばらく沈黙が部屋を包み込む
「…どうしてここが?」
沈黙を破ったのは、いつものように綾乃だった
「…先生に聞いたんや」
「そっか…口止めしといてんけどなぁ」
俺がそう言うと、綾乃は困ったような笑みを浮かべた
「休学するほど…重い病気なんか?」
そう聞くと、綾乃は目を伏せた
「心臓のね…手術するねん」
「心臓…?」
どくん、と今綾乃が口にしたものが脈打った
「うん…今まで全然なんともなかってんけど、最近…腫瘍が見つかって」
「……手術は、安全な手術なんか?」
突然何も言わずに姿を消した綾乃
休学までして手術を受ける綾乃
そして今、泣きそうな顔をして無理に笑っている綾乃
───…嫌な予感がする
「結構難しい手術らしくて……確率は、五分五分なんやって」
「──…50%ってことか」
つまり、二分の一の確率で────
「うん……それでね、お医者さんにそのこと言われた時ね…意外と落ち着いて受け入れられてん」
「…おん」
綾乃は静かに話を続ける
「今まで幸せやったし、毎日充実してたから…やり残したことはないかな、って」
「……」
何で、何でそんな話をするんや…─?
綾乃は何を言おうとしてるんや…─?
「でも、1つだけ…1つだけやり残したことあるなって気付いてん」
「それって…?」
続きを促すと綾乃は伏せていた目を上げて俺を見つめた
「恋を、したことないな…って」
「綾乃…」
そこで俺はずっと気になっていたことを口にした
「何で、俺やったんや─?」
声が、少し震えてしまった
綾乃は柔らかい笑みを浮かべて俺の手をとった
「分からへん…分からへんけど、なんでやろうなぁ……蔵ノ介の顔が真っ先に浮かんでんなぁ」
その時のことを思い起こすように綾乃は目を細める
「綾乃…」
俺もぎゅっと綾乃の手を握り返す
「──蔵ノ介?ほんまにありがとうね」
「…ん?」
「蔵ノ介のおかげで、色んな気持ちを知れたよ」
「…俺もや」
小さく呻くようにそう言うと、綾乃は嬉しそうに微笑んだ
「初めて手繋いで、デートして……あぁ、恋人同士ってこんなんなんかなぁ、って…恋って───こんな気持ちのこと、言うんかなぁって」
「おん」
段々と、微笑んでいた綾乃の顔が歪んで…声が、手が震え出す
「ありがとう…ほんまに、ありがとう…っ」
「綾乃…」
「蔵ノ介で…──よかった」
綾乃の目が次第に赤らんできて、目がうるうると霞んでいるのが見るからに分かる
しかし、それでも綾乃は堪えて俺に笑顔を向けようとしていて…
俺は咄嗟に立ち上がって綾乃を抱き締めた
ガタンっ、と俺が座っていた椅子が倒れて大きな音を鳴らすが構うものか
「綾乃っ!もう、ええ…!そんな顔すんな…もう、俺の前で我慢なんかすんな」
「蔵ノ介…な、に言ってるん?私は大丈夫…」
綾乃は慌てて俺の腕の中で顔を背け、胸を押して体を離そうともがく
だが、そんな抵抗を封じ込めるようにキツく抱き締め直す
「嘘や」
今までどんな気持ちで笑ってた?
一人でどんだけ悩んだ?
もう、一人で抱え込むのはやめろ
俺の前では…弱音吐いてもええんや
そんな思いを込めてぎゅっと抱き締め直すと、綾乃の体が小刻みに震えた
そして俺の腕の中で身を捩ったかと思うとグシグシと目を擦っているのが分かった
「綾乃…我慢せんでええ」
もう一度そう囁いて頭を撫でれば、綾乃は嗚咽を漏らし始めた
「っ、うっ…」
俺はその震える小さな背中をあやすようにゆっくり撫でた
しばらくして落ち着いたのか、綾乃は静かに口を開いた
「最後にもうひとつ…お願いしてもいい?」
なんやねん、"最後"って…──
「…なんや?」
俺は心がざわめきながらも優しくあやすように綾乃の頭を撫でた
「…─キス、して?」
「え…─」
そう言った綾乃の瞳は真剣そのもので…
どこか、覚悟を決めたような…そんな目をしていた
俺がそっと肩に手を置くと、綾乃は静かに目を閉じた
──ドクドクと、心臓がうるさい
俺はゆっくり綾乃に顔を寄せて、唇が触れるか触れないかというほど近付き…互いの吐息がかかる
──俺はグッと綾乃の肩を押して体を離した
「…蔵ノ介?」
すると目を開けた綾乃がどうしたのかと首を傾げる
「アカン、出来ひん」
俺は下を向いて声を絞り出した
「え……私とキスするの、嫌?」
綾乃の切なそうな声が耳に届く
「ちゃう、ちゃうんや……」
そして俺はもう一度綾乃を抱き寄せて首もとに顔を埋めると、綾乃が戸惑ったようにそっと俺の背中に手を回す
「キスは、綾乃の手術が成功する…それまで取っときたいんや」
「蔵ノ介…っ」
はっと綾乃が息を飲むのが伝わる
「でもっ、もし…」
そして大きく瞳を揺らしながら俺の胸にすがってきた
「何で、そんな失敗する前提で話すんや…っ」
「っ、だって…」
いつも笑顔で周囲を元気にする綾乃はどこにいったんや?
そんなん、お前らしくないやろ
「手術成功させて…また俺に会いに来てくれ。俺が待ってる、綾乃が戻ってくるんを待ってる…それにな?──俺は綾乃に、言わなあかんことがあるんや」
そう言うと綾乃は声を枯らしながら言った
「な、に?」
「今は、言わん…次に会った時に、その時に言う」
次に会った時…──それは、手術が成功した時
真っ直ぐに綾乃の目を見据えてそう言うと
「っ、うん…うん」
綾乃は眉を下げながら泣きそうな笑顔を俺に向けた
その後、俺たちはポツリポツリと他愛のない言葉を交わし──
俺は病室をあとにした
綾乃、俺な?
お前と付き合い初めて気付いたことがあるんや
俺は、お前のことが…──
まだまだ伝えてないことがたくさんある
まだまだ綾乃と行きたいところがたくさんある
せやから、絶対手術成功させて…
『蔵ノ介っ!』
またいつものように、笑ってくれ
2012*08*09