弱虫ペダル | ナノ


  懐かしさに懐かしむ


晴れ空の下、心地好い風をうけながらペダルを思い切り踏み込む。
自然と回転数が上がって前に進む速度があがる。
このままペースを上げて登りきってしまうかと考えた時後ろから声がかかった。

「今関ー、お前これ以上ペースあげるなよ」
「お前今日の練習グループで走るんだってこと忘れてねぇか」
『...ごめんなさい』
「やっぱりか」
「にしてもお前去年も充分速かったけどまた速くなったよな、登り」
『え、そうかな』
「そうそう軽くなったよな、前はお前結構無茶な走りしてたのに」
『それは...自分でも分かってたんだけどね、ちょっと踏ん切りがつかなくて』
「なんかあったの、そう走り方変えようとか思う転機みたいなの」

そう問われた夏樹は考え込むようにハンドルに顔を埋める。
何度か小さく唸ったあとに顔を上げるとそこには少しだけ困ったような色が浮かんでいた。

『う、ん...話してもいいんだけどね、思い出すだけでなんていうか当時の自分の未熟さを実感するというか』

珍しく先を濁す夏樹に同級生の彼らは思わず目を瞠する。
そんな彼らに苦笑いを浮かべて、空を見上げる。
あれは去年の初夏、うだるような暑さが唯一身を潜ませる夕方のことだったか。
あの時ふいた風の温度まで鮮明に覚えているほど、その記憶は夏樹の中に根強く残っていた。




* * *




また千切られた。
遠ざかっていく背中に思わず唇を噛み締める。
練習を兼ねた簡易なレースを福富と繰り返していたがそのレースには1度として勝ったことはなかった。
自分より速い福富に勝てば何か変わるかと思ったがそれすら叶わない。
思わず自分の脚を強く叩いた。

『ほんと、嫌になる...』

もっと回せと、まだ回せると頭の中ではそう考えるのにその通り動かない自分の脚も他人より先に切れる自分の体力も何もかもが嫌だった。
何より嫌だったのは―――

「何が嫌なのだ?」

突然隣からかかった声に思わず肩を揺らす。
驚いてそちらをみるとそこには不思議そうな顔をする東堂がいた。

『...びっくりした』
「あぁ、すまんな。だがこれが俺のスリーピングクライムだからな」

そう言って自信満々に決めポーズをきめる東堂に苦笑いをこぼす。
そんな夏樹に一変、水分補給の為にとボトルに手を伸ばしながら東堂は「それで、」と真剣な表情を浮かべる。

「嫌なこととはなんなのだ」
『聞かなかったことにするとかは』
「無理だな、話して貰うぞ」

真っ直ぐに目を見つめてくる東堂に思わずため息を吐きたくなった。
彼にこそ一番聞かれたくなかった、山を得意とするクライマーの彼には自分の思ってることは理解出来ないだろうし何より不快にさせてしまうような気がした。

『独り言だけど聞いてて気分悪くなったら先に行ってくれて構わないから』
「うん、わかった」

そう頷く東堂に少しだけ息を吐き出して目を伏せる。

『最近上手く走れないんだ、速く走る為に努力してるつもりなのに速くならないし...一向に寿一に勝てる気もしない』

高校に入ってからその事実は重くのし掛かっていた。
隣を走っていた筈の背中が少しずつ小さくなっていき次第に見えなくなってその距離に気持ちばかりが急く。

『技術や戦術で負けてるつもりはない、原因もほとんどが体格と体力の差なんだって嫌でも分かってる。でも本当に嫌なのはそれを理由に諦めそうになってるってこと』

ハンドルを強く握り締めるとそれをほどくかのように東堂の手が被さる。
突然触れた温度に思わず伏せていた目を上げて東堂を見る。
引き締められていた顔が緩んでそっと笑みを浮かべられる。

「そんなに力を籠めてはいけない。手に痕がついてしまうぞ」
『東堂くん...』
「うむ。しかしやっと分かったぞ、今関さんの速さの理由が」
『え、どういうこと?』
「取り敢えず今関さん、今は諦めるのだ」
『それって―――』
「あぁ、そうだ。フクに勝つことを諦めろ」

はっきりと包み隠さず言われたそれに息が詰まった。
やはり他人から見ても勝ち目のない無駄な努力なのかと。
誉めたかと思いきや諦めろと宣言する東堂に頭の中は混乱していたが、それは確実に悔しさと悲しさに変わりつつあった。
思わず視線を下に向けると隣から東堂の「違うぞ、最後まで聞いてくれ」という焦った声が聞こえる。

「勘違いしては困るぞ、何も俺は今関さんがフクに勝てないとは思ってない」
『...え』

またもや先程とは違うことを言い始める東堂に夏樹は瞠目した。
頭の中が一気に混乱で埋め尽くされる。

『どういうこと?』
「今の今関さんとフクの実力なら覆せない程の差はないと思う、だが実際は暫く勝ててない。その理由を君はフィジカルの差だと考えてる」
『そう、だよ...。それしか心当たりがない』
「本当にそうかね、俺の知ってる君はもっと楽しく自転車に乗ってるが。今君は自転車に乗って少しでも楽しいと感じてるか?」

真剣な顔でそう問いかけてくる東堂に夏樹は戸惑った。
明らかにこの質問は自分の考えの範疇にはなかったのだ。

「先輩との入部を賭けた勝負で初めて今関さんを見たとき本当に楽しそうに思えた、自転車が好きなんだと走りがそう語っていた。それなのに最近はそれが何処か鈍って感じられた、どうしたのだろうと思っていた矢先にこれだったからな、まったく驚いた」
『東堂くん、』
「こうして話してよーく分かった、君に大切なのは自転車が楽しいと感じることだ。それだけで君は男子と張り合えるまで強くなれるし、逆にそれが無ければ途端だめになる」
『そんな単純な理由なのかな?』
「いいではないか、単純明快なのだから解決するのはそう難しくないぞ」

そう言って腰を上げてダンシングの姿勢をとると東堂は振り向き様に勢いよく夏樹を指す。

「手始めにフクを抜きに行くぞ、準備いいか?」

今にも飛び出しそうなその勢いと展開に一瞬唖然とするがそんな暇もなかった。
次の瞬間にはペダルを踏み始めてる東堂に反射で着いていこうと身体が勝手に動き始める。
それからはあっという間だった。
無駄なく最適なコースを選んで瞬く間に加速していく、最高に綺麗なフォームで走るから本当に音がしない。

『うっわ...』

着いていくのに精一杯だったからか周りの景色は見えていなかった。
いつの間にか福富を抜いていたらしいがそれすら気付けなかった。
それくらい胸が高鳴っていた。
お腹の底がぐらぐらするような焦らされる感覚。
暑くて堪らなかった、もっとじっくり東堂の走りを見なきゃいけなかったのにそんなことは微塵も頭の中になかった。

(追い付きたい、でも追い付けない、ちょっと苦しい、それに悔しい、でも...)

ハンドルを強く握り締めた。
久し振りの感情に心が身体が震える。

『東堂くん!』

抑えの聞かない昂りは確かに初めてロードを乗った時のそれと同じで。
色んな感情が交錯するなかでもそれだけは一層強烈に感じた。

『私、今すっごく楽しい』

身体はどこまでも軽かった。




* * *




『っていうことがあって私に一番合ってるのは楽しんで走ることなんだなって自覚したの』
「今関の自転車バカの焚き付け役は東堂か」

納得のいった顔で頷く彼らに思わず苦笑いが浮かぶ。
得てして彼らの言ってることも間違いではないからどうしようもない。
東堂のお陰で色々なものが吹っ切れて素直に自転車を好きになれた、改めて楽しいと思えるようになったのだから。

立て掛けていたロードレーサーを手にとり散らばっていた部員に休憩の終わりを告げようとすると遠くから笑い声が聞こえる。

「この笑い声は...」
『噂をすればってやつかな』

声のする方を見るとそこには東堂がいた。
気分良さげに近付いて来た東堂は夏樹達の前で足を止める。

「なんだ休憩か夏樹のグループは?」
『そういう東堂君は1人で登って来たの?』
「うむ、フクが一緒だったからな。先に登らせてもらった」

そう言って豪快に笑う東堂に夏樹以外の面々は呆れたような顔をする。

「こういう所も似ちまったのか今関」
『そう、なのかな』
「ん、なんだなんだ、何の話をしているのだ?」

興味津々な顔をしてこちらを見つめてくる東堂を宥めろといわんばかりに背中に視線が刺さった。
困ったものだと思いながらロードレーサーに跨がる。

『山神様は凄いよって話』

走り出す際、唖然とした東堂に思わず頬を緩めざる終えなかった。






(大丈夫か東堂、顔が赤いぞ)
(...な、なんなのだ、夏樹はいつも不意討ちすぎる)

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