弱虫ペダル | ナノ


  遠ざける者、遠ざかる物


「オレ...もしかしたら自転車辞めるかもしれない」

そう告げられた言葉に一瞬反応が出来なかった。新開が何を言ってるのかそれ自体が分からなかった。
それでも消えそうな声は確かにこの場の空気を揺らしてじわじわと嫌な衝撃を与えてきた。

『待って...言ってる意味が分からない』
「......」
『それにインターハイはどうするの?この間のメンバー決めのレースでも勝っちゃったじゃない』
「...それに関しては断るつもりでいる」

乾いて上手く声が出ない口をどうにかして動かしていたが一瞬でも気を抜いたら掠れてしまいそうでどうしようもない。
動揺や怒りや困惑やいろんな感情が混ざって頭の中が真っ白になっていく。

「コイツなうさ吉っていうんだけどさ。オレがコイツの母親殺しちまったんだ」

この感覚には覚えがある。
以前もこうやって新開を気付けた、子供みたいに感情が制御出来なくなって持て余して。

「本当に取り返しのつかないことをしたと思ってて。命ってやり直しが効かないんだって後から実感したりして、バカみたいだよな」

未だになくならないその時の溝を只黙って見ていることしかしなかった。
なのにまたその溝を抉ろうとしている、自覚はあったけど止められない。
福富が言ってたこともここまでくれば無視することは出来ない。

「だからオレさコイツの世話しなきゃいけねぇんだ、だからこれからは部活には」
『隼人はさどうしたいの?』

漸く動いた口から出た言葉に自分でも驚いた。
しかし一言ついたそれがみるみるうちに感情の制御を決壊させていく。
爪が食い込んで痕が残るくらいに両の手を握り締めた。

「夏樹?」
『うさ吉に悪いからって自転車に乗らないって言いたいの?』
「そういうわけじゃ」

うさ吉を撫でる手を止める新開の苦々しげな視線を正面から受けとめる。
ここまできたら覚悟を決めるしかなかった、傷つけるのが怖いなんて駄々をこねてなんかいられない。

『そういうことだよ、うさ吉のお母さん轢き殺した罪をうさ吉の世話して誤魔化そうとしてるだけだよ』
「......」
『そういうのは償うって言わないよ、ただの自己満足で逃げだよ。自転車に乗れなくなりかけてるって事実から目を逸らそうとしてるだけ』

つくづく薄情な性格だと思う。
新開の苦悩だって分からない訳じゃない、こんな時でも一番にとるのは自転車で。
それでもやっぱり尊敬してる人が自転車から遠ざかるのは見たくなかった。

『...私は隼人がこのまま辞めるって言っても反対し続けると思う』
「...そうか」
『ごめんなさい、気のきいた事言えなくて』
「...いやそんな事ないさ」

くしゃくしゃとうさ吉の頭を撫でながらさっきよりも幾分和らいだ表情になった新開が呆れたように溢す小さな笑い声が胸に刺さる。
そんな自嘲が見たかったわけではなかったのに。

「ホント夏樹の言う通りなのかもな、うさ吉にスッゲェ不実な態度とってたんだオレは」
『......』
「ありがとな夏樹、気付かせてくれて。でもやっぱり部活は少し休む、うさ吉とのこととか色々考えないとならないことがあるし」
『そっか...また戻ってくるの待ってるから』
「...あぁ」
『じゃあ私はもう部活行くね、あんまり遅くなると荒北くん辺りに怒られそう』

そう口早にいって新開へと背中を向ける。
今にも沸きだしそうな滴を何処かで止めたかった、彼の前で子供のように泣くのは2度としたくない。
宛のないまま歩いて、大きく息を吸って吐いてを繰り返す。
そうでもしないとじわじわと目頭が暑くなるのを止められそうになかった。

「夏樹!」

そう唐突に捕まれた腕に驚いて顔をあげる。
そこには何故か息を切らした東堂がいて思わず溢れそうになっていた涙が引っ込む。

「は、早いぞ、地味に歩くのが、早すぎる」
『と、東堂くん。どうして...』
「オレは、自分で走るのは、得意ではないんだ」
『それは知ってるけど、そうじゃなくてどうしてここに?』
「夏樹が泣きそうだったからな」
『......見てたの?』
「すまない、故意に見るつもりはなかったんだが」

「どうにも放っておける雰囲気ではなかったからな」と言って焦って弁解をする東堂に唖然とする。
あの場で感情的になって喚いたことすら恥ずかしいのにそれを見られたなんて羞恥の極みだった。
捕まれていないほうの手で顔を隠すように守ればそちらの手も捕まれる。

『...放して下さい』
「絶対に放さんぞ」
『大きい声で叫ぶよ』
「だとしても放さんぞ」
『どうしてそこまでするの...』
「夏樹は今から泣くだろう、だけどそうやって隠して圧し殺して結局のところ誤魔化そうとする」
『......』
「そう里中が言ってたのでな、放っておける訳がない」

腕を引っ張られた先に丁度東堂の肩があり額がゆっくりとそこに収まる。
あやすような手つきで頭を撫でられ思わず張っていた感情が緩んで涙が少しずつ溢れてくる。

「今は胸をかそう、だから余り1人で抱え込むな夏樹」

これで東堂に助けられるのは2度目になるななんて頭の片隅にそんなことが浮かんで。
でもそれはすぐに他の感情の波に流されていく。
不甲斐なくて情けなくて、ただそんなことばかりが頭の中を占めていた。

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