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「死亡者だけでおよそ二千人、負傷者はその倍。PSYCHO-PASSに異状をきたした市民は少なくとも一万人以上」
シビュラ確立後、ここまで甚大な被害が出た事は聞いたこともなければ、こんな途方もない数字を見た事もなかった。
「槙島聖護は逮捕出来たけれど、私たち勝ったと言えるんでしょうか」
目的は果たせた筈なのに、どこかもどかしさが残る。
己の力不足に思わず顔をふかせたくなる。
「刑事の仕事は基本的に対処療法だ。被害者が出てから捜査が始まる。そういう意味じゃハナから負けている」
背中合わせに座っている狡噛の言葉が胸に刺さる。
「だが負け試合をせめて引き分けで終わらせることは出来た、それだけで良しとするしかない」
「結局シビュラシステムの安全神話ってなんだったんでしょうか」
「安全、完璧な社会なんてただの幻想だ。俺たちが暮らしているのは今でも"危険社会"なんだ」
「危険?」
「便利だが危険なものに頼った社会のことさ。俺たちは政府によってリスクを背負わされていた、しかしそれが巧妙に分散され分配されていたので誰も気づかなかった」
そこまで言って狡噛は、いや、と言い直す。
「気づかなかったんじゃない、気づいていても気づかなかったことにした。誰もが目をそらしていたのかもしれない。危険がそこに確かに存在するがゆえに、逆に存在しないものとして扱わないと正気が保てなかった」
「…この街の市民はそこまで器用だったでしょうか、私も含めて」
「俺は多種多様の人間を一括りにしたような話し方はあんまり好きじゃないんだが、ここはあえて大雑把にいこう。人間は器用なものだと思う。自分の責任を回避するための努力を無意識に行うことが出来る」
静かにそう語った狡噛に返す言葉もなかった。
なんともいえない空気が流れる。
ふと狡噛が話題を変えるように立ち上がる。
「余計な話だったな、俺も浮き足立っているのかもしれない」
「…え?」
「槙島聖護をどう裁くか、問題はこれからだ。こいつはドミネーターをぶっ放すより遥かに難しくて厄介な仕事だ。だが逃がす訳にはいかない、奴が罪を犯したということは厳然たる事実だ」
どこか力の篭った声が聞こえてきて思わず複雑な気持ちになる。
やはり狡噛の執念はまだ収まってはいないのだと。
「残った心配はかがりのバカヤローのことだ。俺たちと別れて地下へ向かって、何故そこで連絡が途絶えた?」
行方不明、その言葉にふと思いだすことがあった。
スカートのポケットの中からそれを取り出して光にかざす。
「それは?」
「メモリーカードです。...多分名奈ちゃんの」
「なに?」
狡噛は一瞬で顔色を変えると詰め寄ってきた。
信じられないといった顔でメモリカードを見つめる彼にそれを手渡す。
「中身は?」
「まだ...かなり厳重なロックがかかってて」
「...これが名奈のだっていう確証は」
「なんとなくですけど、あの場にこんなものを残す必要がある人はそう多くはないと思うんです。まして私たち当てにとなると心当たりがそれしかなくて」
「...そいつもそうだな」
そう小さく呟いた狡噛は暫くメモリーを眺めると、おもむろにそれを突き返してくる。
「それはあんたが持っていてくれ」
「え、いいんですか、私で」
「あぁ。名奈が何を思ってそれを残したのか中身が分からなければ分からんが、恐らく槙島と行動していただろう、あいつなら槙島が捕まったことも察している筈だ」
「......」
「なのにそれを置いてまだ何処かに逃げた。逃げなきゃいけない理由があった」
「単純な脱走じゃない理由」
「あいつが態々ここにいましたって証拠を残して消えたことには絶対意味があるはずだ」
* * *
心が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わると唱えた心理学者がいた。
それは最終的に運命を変えるまでに至る。
運命すら左右する心とは人にとって重要なファクターだと思う。
『先生なら、』
ならそれを逆手に取ってみてはと考える。
心が分かればその人の行動もある程度読めるのではないかと。
皮肉なことに他人の心を読み解くのは、全てを思い出した今、さして難しいことには感じない。教育の賜とは伊達ではない。
そこら中にある本を読み漁っては次の本をすぐ手にとってを繰り返す。
一刻の時間すら無駄には出来なかった、目的を果たすために。
* * *
意識が回復して目を覚まして、まずそこが見覚えのない景色だということを槙島は瞬時に悟った。
ゆっくりと体を起してあたりを見回す。
「久しぶりだね、聖護くん。変わりないようでなによりだ」
「...公安局局長、禾生さんだったかな。面識はないと思うが」
「まぁ、この三年で僕は随分と様変わりしたからね」
そう、懐かしむかのような口調で語る禾生に、槙島も何か感じるところはあった。
すると禾生は読んでいた赤いブックカバーのかかった本を持って立ち上がる。
「君に謝らねばならないことがある、以前君に借りていた本なんだが色々と身辺がごたついたせいで紛失してしまってね。同じものを探すのに苦労したよ」
「驚いたな、君は...藤間幸三郎なのか?」
「懐かしいな、あれからもう三年か」
「僕は君が公安の手に落ちたと聞いて心底残念に思ったものだ。しかしその顔は整形...いや、違うな。体格からして別人だ」
そう言って禾生もとい、藤間を注意深く槙島が観察すると藤間は得意気に小さく笑みを浮かべる。
「全身のサイボーグ化はお友達の泉宮寺豊久も実現していたよね?だがここまで完璧な義体化技術は民間には公表されていない。生身の人間とまったく見分けがつかないだろう?」
指で瞼を押さえて大きく瞳を動かすが藤間はなんの苦痛も示さない。
「君の知っている藤間幸三郎は、脳だけしか残っていない」
「あれだけ世間を騒がせた連続猟奇殺人犯が公安局のトップ?冗談にも程がある」
「厳密には違う。禾生壌宗は僕一人ではないし、僕もまた常に禾生壌宗というわけではない。僕らの脳は簡単に交換できるようユニット化されていてね。いつも持ち回りでこの身体を使っているんだ」
日頃の業務の息抜きも兼ねてね、と締め括って椅子へと戻っていく藤間の後ろ姿をみながら槙島は彼が言った言葉を頭の中で反芻させる。
「僕ら、だと...?」
「あぁ、僕はあくまで代表だ。君と旧知の間柄ということで、この場を任されたにすぎない。本当はあの子がいれば僕の仕事ではなかったんだが」
「......あの子?」
「姿を人目に晒したことはないけれど、僕たち、名前だけならそれなりに有名だよ。君だって知っているはずだ」
「......」
「世間では僕らのことを、シュビラシステムと呼んでいる」
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