私は京介を幼い頃から知っている。同じように、京介も私を幼い頃から知っている。 それなのに、私は京介と特別親しくはないし好きでもない。それは向こうも同じことで、お互いがお互いに特別な感情は一切抱いていないのだ。 今にも切れてしまいそうな細い糸で辛うじて繋がっているだけの私たちを、幼馴染と形容するのかには議論の余地が残るだろう。私が誰かに京介との関係を聞かれた時は、決まって「腐れ縁」と解答してきた。中々的を得ていると思うのだ。 今にも腐り落ちそうな糸で結ばれた私たち。 それが、私と京介の関係だ。 そう、思っていた。 315号室、剣城優一とネームプレートのかかった病室の扉を軽く叩くと柔らかな声音が返ってきた。 まぎれもなく、優一さんの声だ。久しぶりの、優一さん。 色とりどりの花束を抱える手がそわそわと動き、緊張で喉が収縮する。 おかしな所ないよね? なんだか不安になってきて改めて自分の恰好を見下ろす。 お気に入りのワンピースと胸元に光る控えめなアクセサリー、小さなリボンが付いた新品のミュールで優一さんの好きな清楚系に。伸ばしている黒髪はハーフアップにして、それから薄く化粧までした。 大丈夫、完璧。大丈夫。 呪文のように心のなかで唱えながらなんとかスライド式の扉を開けると、美しい微笑みを浮かべた優一さんが私を出迎えてくれた。 優一さん、優一さんだ。 きゅん、と胸が鳴る。 「やあ、名前ちゃんか。久しぶりだね、そろそろ来る頃だと思ってたんだ」 「は、はい……」 優一さんが笑っている、私を待っていてくれた。 たったそれだけのことがどうしようもなく嬉しくて、早速頬が熱を帯びてしまった。恥ずかしい。頬に手を当てると、優一さんはまたにこりと笑った。 「ほら、そんな所に立ってないでこっちにおいでよ。そこに椅子があるから」 「うん、あの、その前にこれ……」 彼がいるベッドに近寄っておずおずと花束を差し出すと優一さんはぱちりと瞬きをした。 ……やっぱり驚かせただろうか、それとも派手過ぎた? 見舞い用の花を自分で選ぶのは初めてで、お花屋さんで自分が一番キレイだと思ったものを買ってしまった。 不安になってじっと優一さんを見つめると、彼は優しく微笑みを落とした。 「すごく……綺麗だ。こんなに大きくて綺麗な花、初めてもらったよ。わざわざありがとう、高かったろうに」 「こ、これぐらい平気! 私、春からアルバイト始めてて、それで、貯めたお金で買ったの」 「名前ちゃんがアルバイト……。そっか、もう高校生になったんだもんな。頑張ってるんだね」 そっと薄紅色の蘭の花を撫でる優一さんの横顔は本当に綺麗で、大輪の花を咲かせている花束すら霞んで見えた。病室の白さが太陽の光を乱反射して、目の前が眩む。優一さんに褒められて、私は幸せだった。一時だけでもいい、優一さんに愛でられる蘭の花になれたら私はさらに満たされるだろう。 恍惚とした幸福感に耽っていると、優一さんは蘭を愛でるのを止めて大切そうに傍らのデスクの上に花束を置いた。 「名前ちゃん、本当にありがとう。後で看護士さんに活けてもらうね」 「え、あの、いいの! よかったら、わたしがいま活けてこようか?」 「ふふ、俺はきみとお喋りしたい気分なんだ。俺のわがままに付き合ってくれないかな」 悪戯っぽく優一さんが片目を瞑る。カッコイイ。すごくすごく、カッコイイ。 「うあ、あのっ、もちろんです!」 そもそも私が彼に逆らえる筈もなく、慌ててベッドの傍の椅子に座った。私の慌てぶりにか、きょとんとした顔を見せた優一さんがおかしそうに笑いだす。 「そんなに慌てなくても俺と椅子は逃げないよ」 「う……」 引いたと思った頬の熱もまたぶり返してきて、恥ずかしさのあまり優一さんから顔を反らす。優一さんは時々意地悪だ。 「……あれ?」 「ん? どうかした、名前ちゃん」 笑い声を引っ込めて、ふんわりと微笑んだ優一さんが首を傾げた。私の視線の先を辿ると、ああ、と納得したような声を上げる。 「さっきまで京介がいたんだ。名前ちゃんが見舞いに来るって教えてくれたのも京介なんだよ」 「そ、うですか」 京介と優一さんが飲んでいたのだろうカップが仲良く二つ並んでいて、私はそれを複雑な気分で見ていた。 京介の名前は、出来ればあまり聞きたくない。心中で呟いた私の声に気付かない優一さんの穏やかな声が響く。 「京介も変な奴だよね。どうせ見舞いにくるなら名前ちゃんと一緒に来ればいいのに」 「いえ……」 さっきまでと違って、私の口はすっかり重たくなっていた。急に重力を思い出したように身体も気分も重くなって、二つ並んだカップがそんな私をせせら笑っているように見える。 「名前ちゃん?」 「あの、やっぱり私お花活けてきますね」 「え?」 ろくに返事も聞かないで空の花瓶と自分が持ってきた花束を引っ掴むと、後ろから追いかけてくる優一さんの声を振り払って病室を出た。今の気分のままじゃ、優一さんの傍にいても笑えそうになかった。 剣城京介と知り合ったのがいつなのか、具体的な事を私は一片も覚えていない。 彼の兄である優一さんとの出会いは甘酸っぱくキラキラとした輝かしい記憶として刻まれていても、京介とはいつの間にか知り合って流されるままに今日に到る、という文字にして一行や二行そこらで語れてしまう程だ。 優一さん曰く、優一さんと私が初めて出会った日に京介も一緒にいたというのだが、私の記憶の中に幼い京介の姿はない。 覚えているのは、お隣に越してきました、とニコニコ笑う素敵なご両親の間に挟まれてふんわりと微笑む幼い優一さんの姿だけだ。当時、男といえば幼稚園のちんちくりん共としか接していなかった私からしてみればその微笑みだけで衝撃的な人だったのだ。 転がり落ちるように恋をしてしまったのは当然の流れだろう。 カツン、とミュールがリノリウムの床を叩く音が響いた。 無人の廊下に私以外の人影はなく、廊下の窓ガラスからは灰色の雲が見える。もうすぐ一雨来そうだな、とぼんやり考えながら両腕に抱えていた花束と花瓶を水道のシンクの上に置いた。 花瓶に水をいれると花を移し替え、近くのゴミ箱に包装紙を投げ入れる。たったそれだけの単純作業を終えると、ずっしりと重さを増した花瓶を持ち上げた。 「重……」 思わず眉を顰めてしまうぐらい両腕に掛かる負荷は大きい。それでもなんとかよろよろ歩き出すと、慣れないミュールのせいで数歩も行かない内に足がよろけた。 「あっ、」 やばい、花瓶が割れる。 慌てて胸に抱きこむと、花瓶は割れなかった代わりに私のワンピースに盛大に水をぶちまけてくれた。これは、あんまりだ。 言葉もなく呆然とワンピースの染みを見ていると、私以外誰もいないはずの廊下に靴音が響いた。 「……なにしてんだよ」 咄嗟に顔を上げると、そこにいたのはとっくに帰った筈の京介だった。 相変わらず景気の悪そうな極悪面を歪めて私を睨むように見ている。優一さんよりもずっと久しぶりなその姿に、小さく心臓が跳ねた。 くるりと身体を反転させて来た道を引き返す。返事をする必要はないと思ったし、返事をしたくなかった。けれど私の反応は彼の予想の範囲内だったらしく、すぐに腕を捕らえられる。身体が震えた。 「シカトかよ」 「あんたには、関係ない」 「へぇ」 口の端を歪めて嫌な風に笑う京介を私は無表情のまま見返した。優一さんの笑顔と違って、京介が私に向ける笑顔にはいつも温度がない。それどころか、不穏な光が底光りするような凶悪で冷たいものばかりだ。 「アンタも相変わらずのようだな。兄さんに振りまく愛想はあっても俺にはない」 「手、早く離して」 「あ? もしかして化粧までしてるのかよ。その格好も兄さん好みだし、ずいぶん必死だな」 「いいから、手、離してってば」 声が震えそうだった。それでも精一杯睨みつけると、ハッと小馬鹿にしたように笑われる。そして嫌がらせのつもりなのか、手を緩めるどころかさらに締め付けてきた。その痛みが二度と思い出したくない記憶を刺激して、下腹がずんと重くなる。気持ち悪い。 「好きな奴の弟に触られるのも耐えられないのか。大した一途さだな、見込みもないくせに」 カッと頭に血が上って、気が付くと花瓶の中身を京介に向ってぶちまけていた。 「あんたなんか死ねばいい!」 運動神経が抜群にいい彼もさすがに至近距離の攻撃を避けられるはずもなく、頭から大量の水と花を被ることになった。彼の手から力が緩んだ隙に素早く自分の腕を引き抜くと、すっかり軽くなった花瓶だけを抱えて後ずさる。 この後京介がどんな形で私に報復するか、それが恐ろしかった。中学二年生とは思えない、化け物のような力を持つ彼がただの女である私をどうにかすることなどそれこそ意図も容易く出来る。 そのことを、私はよく知っている。 京介は水の滴る髪を掻き上げながら私を見た。 ……ただ、奇妙なまでに静かだった。 しん、とした静寂の中でなんの温度も光もない京介の目と視線が絡んで、やがてふつりと切れる。 京介は私に近づこうとしたのか、廊下に出来た水溜りを一蹴りした。その音に反応した私の身体が勝手に震え出して、目を瞑ることで京介の姿を遮断してしまう。 ……京介が怖かったのだ。京介が紛れもなく「男」なのだと、それを思い知らされた時から彼がどうしようもなく怖かった。 雨粒が窓ガラスを叩く音に気付いた頃には、京介はどこかに消えていた。 病室の扉を開けると心配そうな表情をした優一さんが私を出迎えてくれた。 「ずいぶん遅かったね」 「あ、うん……」 色々あって、と誤魔化すように笑うと優一さんはさらに心配そうな顔をした。ちくりと胸が痛む。 「あの、お花もね、ダメになっちゃって……」 「ああ、京介から聞いたよ。京介が名前ちゃんをからかって怒らせて、その時花を台無しにしちゃったって。折角買ってきてくれた花だったのに、京介が本当にごめん。よく叱っておいたから」 「え?」 京介がそんなことを優一さんに言うなんて思えなかった。全て私のせいにして、優一さんに散々悪口を吹きこんで私を悪者に仕立て上げるくらい京介ならやりそうだ。 私が眉を寄せると、優一さんは苦笑した。 「あまり京介を誤解しないでくれると嬉しいな。京介はああ見えて、すごく優しい子なんだよ」 「……優しい?」 そんな訳ない。あいつが優しかったら、私たちは。 私が唇を噛んで俯くと、優一さんが困ったように笑うのがわかった。優一さんはいつも私と京介をそんな風に見る。優一さんにすれば私も京介も可愛い弟と妹なのだろう。分かっていたことだけど、私をもっとちゃんと見て欲しかった。私だってもう、高校生になったんだ。 「ほら名前ちゃん。ワンピースの濡れてるところ、乾かした方がいいよ」 「あ、うん。ありがとう」 優一さんが差し出すタオルを受け取ると、さっきまで使っていた椅子に座りなおす。ぽんぽん、とすっかり水の染み込んだ部分にタオルを押し当てていると優一さんが傍らのデスクを指さした。見覚えのない、シンプルな青い折り畳み傘が乗っている。 「雨、名前ちゃんが帰るまでに止まなかったらそれ使ってね」 「……傘なんて、あった?」 ああ、と優一さんが優しく笑った。 「京介がね、届けてくれたんだよ」 その傘が誰への優しさなのか。 優一さんは静かに微笑むだけで、言葉にはしなかった。 不即不離 二つのものがつきもせず、 離れもせずの関係にあること |