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はぁッ はぁッ
息を切らしながらも辿り着いたその先は、大きな藤の木だった。
そして捜し求めた音の主は、その根元に腰を下ろしながら目を瞑り琵琶を奏でていた。
小さな少女。
後宮には楽を生業とするものも多く存在する。
けれど、その者たちよりも遥かに素晴らしい音と技法で奏でる音の主が、自分と同じ年頃の幼い少女と知り驚愕に目を見開く。
そしてその少女の美貌にも。
幼いながらにも、その少女はハッとするような美貌の持ち主だった。
陶器の様に透き通る白い肌
艶やかな漆黒の髪
ほんのり染まった桜色の頬
花びらの様な小さな唇
鈴蘭の君と絶世の美貌を謳われた母にも劣らない少女に、子供はしばし見とれた。
声を掛けようかと思ったが、子供はつと留まった。
その少女の弾き様が余りにも悲しそうな表情を浮かべているために、子供は声を掛けることもなくじっと佇んで音に耳を傾け続けた。
「お前が弾いていたのか」
少女が曲を奏で終わり、余韻に心を傾けていた時、子供は尋ねた。
その言葉に、閉じていた少女の瞳が開けられ子供と視線が交わる。
「ッ!!」
まるで全身に何かが通ったようなそんな感覚だった。
橙がっかった赤褐色の瞳に見つめられながら、子供はそんな感覚に襲われた。
やがてゆっくりと少女が立ち上がり、優雅な作法を持って子供に拝礼した。
『お初に御目文字仕ります、清苑公子
女官見習いの婉蓉と申し上げます』
物心の付く前から厳しく躾けられたと分かるような所作と紡がれた言葉に、清苑と呼ばれた子供はどこか悲しい感情を抱いた。
「お前が弾いていたのか」
再度同じ問いをすれば、是、という短い返事が返ってきた。
それきり言葉を発さない少女に、子供はどこか寂しさを感じていた。
自身でも気付かないまま―。
これが後に王位争いの中心人物となる清苑公子と婉蓉の邂逅だった。
清苑と婉蓉の初めての邂逅から、早二年の歳月が流れた。
その間、二人が言葉を交わしたのは両の手で数えられる程度だった。
しかし、他の公子たちに話しかけられても皆一様の態度で袖にしていたことに比べ、自身はきちんと言葉を交わしていることに清苑は心底喜びをかみ締めていた。
そしてその年の初春、セン華王に第六公子が誕生した。
貴陽一の妓女として後宮に入宮した第六妾妃腹の公子であるため、他の妾妃たちは王位を簒奪される心配はないと、気にも留めなかった。
文字通り忘れ去られた出産であり、今後の第六公子自身の行く末を示すものである。
「婉蓉、またここにいたのか…」
藤の花がポツリポツリと花開く頃、清苑はふと庭園から耳に届いた琵琶の音を頼りに突き進んできた。
時折講義の合間にこうして清苑は彼女の琵琶を聴きに訪れ、その音色に耳を傾ける。
それが、彼にとっての唯一の癒しの時間だった。
『清苑様、この度は弟君の御誕生まことにおめでとうございます』
言われてから初めて、清苑は億尾にもしなかった弟の誕生を祝われ、弟が生まれたことを実感した。
目の前で優雅に拝礼して頭を垂れる婉蓉に見とれながら、彼は心の中でそう呟いた。
「劉輝、だったか……
妾妃の産後の経過もいいらしく、公子も元気だそうだな」
少しだけ表情を和らげた様子に、婉蓉は氷の公子と謂われる彼の内にある優しさに触れたような気がした。
『ですが…』
語尾を濁し、どこか悲しげな表情を浮かべる彼女に、清苑は反応した。
いつもはっきりと言葉を告げる彼女らしくない様子を怪訝に思ったからである。
続きを促すように告げれば、渋々ながらも口を開く。
『夜泣きが酷いようで、陛下の御渡りもないこともあって、第六妾妃様のご機嫌もあまりよろしくないようです』
もともと妓女上がりということもあってか、彼女が気性の荒い人物であることは周知の事実だった。
清苑の母である、第二妾妃―鈴蘭の君―をセン華王の寵妃と勘違いを起こして後宮から追い出したことはそれを裏付けるものだった。
「そうか…」
全く女と言う生き物は本当に愚かな、と口には出さぬものの、清苑は胸中で苦々しく思った。
後宮に住んでいた為に、女人という生き物を嫌というほど知ってしまった彼の正直な感想である。
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