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『も、申し訳ございません…』


積もった沈黙を打破したのは、婉蓉の口から紡がれた侘びの言葉だった。
何故姫が―と言うはずだったが、揺れる彼女の瞳に魅入り言葉を呑む。


『政情に疎い妾でも、貴族派と国試派の派閥争いは耳にしております
御心を休める筈のご自宅で、政敵と称しても過言ではない方の御名を目に留まらせてしまい…本当に申し訳ございませんでした』

「違いますッ!…姫が悪いのではなく、私が勝手に―」


私が勝手に怒りを覚えただけ、と告げるはずだった。
けれど、最後まで言葉は紡がれる事なく、婉蓉の室を下がります、という言葉に遮られた。


「待ってください!」


ガタンと腰掛けが倒れる音と共に、奇人は立ち上がった。
婉蓉同様に、美しい所作を誇る彼が珍しく動作を荒げ、それに気付かぬまま。

文箱を抱く腕とは別に、戸に添えられた腕を戸から離すように強く握りしめ、強引に自分の方へと身体を向かせる。
余りの勢いに、婉蓉のもう一方の腕に抱かれた文箱が床に落ちる。

ガチャ、と嫌な音と共に―。


(あの男から贈られたのモノとはいえ、あれは姫のモノだッ!
それに、こんな風に強く握り締めては、跡が残ってしまう…)


頭の片隅では分かっているはずなのに、せっかく姫と過ごす時間を無得にしてしまった自分が許せなくて―。

何より、姫がこれからあの男の文を詠んで、返事を書く、ただそれだけの行為が許し難かった。
自分はこんな風に狭量な男だったか。

胸のうちで自問自答を繰り返しながら、それでも尚彼女を放すまいと胸に抱き寄せる。
腕の中で何とかして抜け出そうと試みる婉蓉をそのまま覆いかぶさるように、奇人は強く強く、彼女を抱きしめる。


ほのかに香る花橘が、奇人の鼻腔を擽(くすぐ)る。
香がこんなにも、己の感情を刺激するものだとは思っても見なかった。

彼女の香りを、彼女の温もりを、彼女の身体を手放したくなくて―。

警鐘を告げる己の思考を振り払いながら、奇人は婉蓉を腕に閉じ込める。


『御、御屋形様ッ』


余りに強い腕の力に、圧迫感を拭えない婉蓉の声が呻き声の様に紡がれる。
けれど、そんな彼女の訴えも今の奇人の耳には届かなかった。


「…姫、姫……婉蓉、姫ッ」


掠れた声で紡がれる己の名。
何故、こうも胸に強く刻まれるのか。

彼の美声故なのか、それともまた違う感情が自分の中にあるのか―。
それすらも分からなぬまま、奇人の口から紡がれる己が名に、胸を締め付けられた。










 腕におさまる細い肢体

 柔らかな髪

 誘う様な甘やかな香り


過去、この腕に閉じ込めてきた数少ない経験というもので、“女人”とはそいうものだと知っていた。

けれど、その温もりに、感触に、五感を通して感じるその全てに、胸を締め付けられる事はなかった。
これ程までに、愛おしいと、感じたことはなかった―。


「婉蓉……婉蓉…」


まるで彼女が己の腕から逃げぬ様に、ただただひたすらに彼女を縛り付けるが如く、奇人は強く、強く婉蓉を(かいな)に捕らえる。

グルグルと渦を捲く思考の中で、懸命に今の状況を理解せんと婉蓉は頭を働かせる。
けれど、どれ程思考を巡らせようとも、彼女は何故己が奇人の腕に抱かれているのかは理解できなかった。


(皇毅様からの文箱から……御屋形様が御気分を解して……それから、それからッ)


ひたすらに抱きしめられる力強い腕が、己の身体を圧迫して、思うように思考がままらない。


 息が苦しい

 頭が白く霞む


それでも、奇人の衣から微かに香る、伽羅の香が心地好くて―。
苦しさと心地好さに(さいな)まれながら、婉蓉は己の意識が遠のくのが分かった。

皇毅の文の返事、奇人の就寝の準備など、やる事は沢山あるはずなのに―。
遠のく意識を保つ術を、婉蓉は知らなかった。

抱きしめられる腕を振り払う余力もなく、苦しいと言葉を紡ぐ余裕もなく。
ただ、奇人の腕に抱かれるしかなかった。


「婉蓉…」


意識が遠のく寸前、婉蓉を圧迫していた奇人の腕の力が和らいだ。
そして、痛みに揺れた彼女の瞳をそっと覗き込む奇人の顔が、影に染まりながら目に映る。


―ゾクッ―…


背筋にナニかが通った。
恐ろしいまでに妖しくも美しい表情と共に、奇人は艶を帯びた視線で婉蓉を見下ろす。

苦痛と遠のく意識に表情を歪める彼女の表情もまた、奇人の“欲”を煽るほど扇情的で、しどけない――。

そっと彼女の唇に指を這わせ、そのまま顔を近づける。
何をされるか、最早誰にでも分かるもの。

けれど、二人の唇が重なる事はなかった。


 ――ドサッ…


婉蓉は白く霞む目の前に、誘われる微睡みに思考を預け、そのまま気を失った。
投げ出された四肢が奇人の腕をすり抜け床に横たわり、長い長い、艶を帯びた彼女の濡羽珠の黒髪が、漆の如く床を染め上げた。



To be continue...


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