(3/3)



黎深の去った後、静かになった室に奇人は安堵の溜め息を零した。

いつもながら相手をしていたのだが、流石にこの猛暑で酷使した自身の身体を思えば、今日の訪問ははっきり言って地獄のようなもの。
それを悟ってか、婉蓉は黎深が帰りたくなる様な提案を持ち出して奇人に休息の時間を持たせた。

傍から見れば哀れな黎深に心優しい彼女が知恵を貸した、と見えるが、分かる人が見れば奇人へのさりげない配慮だった。


(まこと、良く出来た女人だな…)


彼は正直に胸中で呟いた。
ちらりと彼女の方に視線を向ければ、いそいそと茶の用意をしている。

空を見るように彼女の行動を眺めていれば、コトリと目の前に茶を差し出された。
その茶も、疲れが取れるという龍泉茶だった。


『本日もお忙しかったでは?
お疲れ様でございました』


侍女の以上によく気が利き、やはり主人に向ける言葉とは異なる労わりの言葉を告げる。
ありがとう、と小さく囁きながら優雅な手つきで茶器を口元に運び、一口口に含む。


「美味いな」


今まで何度も口にしてきた茶だが、彼女が淹れた茶は不思議と美味しいものだった。
それは彼女が茶を淹れるのが上手いだけではないということを、このとき彼はまだ自覚していなかった。


『では、妾はこれで失礼致しますね
おやすみなさいませ、御屋形様』

「おやすみ、姫」


静々と足音を立てずに室を去る彼女。

優雅で洗礼された所作。
侍女以上に気の利く機転、穏やかな微笑み。
磨きぬかれた教養、兄同様の博識さ。

どれをとっても、彼が今まで出会ったどの女人よりも優れていた。
それは彼女が自分と同じように容姿の美しさに溺れることなく、絶えず努力を惜しまなかった証拠。

彼女のことを知るたびに、奇人は感心し、女人とは言えど尊敬の念を抱く。
それと同時に、彼の胸にはどこか暖かいものがジンワリと広がった。









『夏の終わりが近づいているようですわね』


屋敷の回廊を進んでいた婉蓉はポツリと囁いた。
ムッとした生暖かい夜風だったが、ここ数日は涼やかなものへと変わっていた。

未だ昼の日差しが猛威を奮い、残暑の厳しい日が続いているが、それでも夜になると秋の訪れを感じる。


(戻らねばならぬ、ということですわね…)


奇人の屋敷で過ごしたこの一月は、婉蓉にとって夢の様なひと時だった。
後宮という女の園で女官や内侍省の官吏たちに気を配る必要もなく、本当に心穏やかに過ごせた。

侍女たちの自身への態度には未だ戸惑いを隠す事は出来ない。
それでも、嘗て兄と共に過ごした頃を思い出せたのは、彼女にとってもよい傾向だった。


(侍女の方々には申し訳ないけれど…やはり、妾の居場所は“あそこ”なのだわ)


この屋敷で世話になってからというもの、侍女たちは事ある毎に奇人と自分の仲を取り持とうとしていた。
いかにこういった事に疎い婉蓉でも、侍女たちが望んでいることなど手に取るように理解できた。

それでも、ここ数日彼女の心を占めていたのは、彼の宮で寂しそうに表情を歪める主の顔だった。


(紅貴妃がいなくなり、続いて妾も……
きっとお寂しい思いをしていらっしゃるに違いないわ)


すっと瞳を閉じれば彼の泣き顔が目に浮かぶ。


“婉蓉、婉蓉、婉蓉…
余は寂しい……余は…余は寂しいッ”



自分が数刻傍を離れただけで、寂しさを訴えていた程寂しがりやな劉輝。
そんな主を一人後宮に残して来た事を思うと、胸が痛かった。

そして、同時に申し訳ないという思いで一杯になる。


(これでは、御傍を離れる事など出来様はずもないわ…)


いずれ自分は近い内に後宮を去る。
いや、去らねばならない。

そう分かっているはずなのに、傍を離れる事を拒んでいる自分がいる。

嘗ての…後宮に入ったばかりの頃ならば、こんな風に悩む事などなかっただろう。
けれど、劉輝と出会い、何より花王と出逢った事で婉蓉は寂しさというものを誰よりも理解する様になった。


(せめてもう少しだけ…もう少し、だけ…)


いづれ去らねばならない。
その日は刻々と近づいてゆく。

その時、自分は笑っていられるだろうか。
大丈夫、と自身を持って劉輝に言えるだろうか。

小さな不安は、彼女の心の中に積もり始める。



To be continue...


 →

top

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -