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『随分と外が騒がしいですわね』
曜春が寝付いた所で、彼の看病を侍女に任せた婉蓉は、室を出た回廊で小さく息を零すとポツリと呟いた。
誰もいない屋敷の回廊で呟かれた言葉に返事をするものはいない。
夜の静けさが一層それを煽った。
けれど、楽をよくする彼女の耳は外の騒がしさを聞き逃さなかった。
ゆっくりとした歩調で回廊を進み、屋敷の主人の室の前へと立ち止まると、そこには意外な人物が立っていた。
『李侍朗…?』
声を掛けてみれば、驚いたように絳攸は目を見開いた。
たが直ぐにこの屋敷がどこか、ということを脳裏に浮かべれば納得した様に表情を戻した。
「婉蓉殿…お久しぶりです」
そう言って、絳攸は嬉しそうに微笑んだ。
婉蓉と久方ぶりに会えた事が嬉しかったのか、珍しいほどに穏やかな笑みを携えている。
『ご無沙汰しております』
「お身体はもうよろしいのですか?」
彼女が暇をもらって後宮から下がって一月程過ぎていた。
女官長と主上付きという激務から解放され、この屋敷でゆっくりと身体を休めていたのだから不安に思う必要はなかった。
けれど、彼女が倒れた時の顔色の悪さを目の当たりにしていた絳攸は問うた。
彼だけではなく、劉輝や楸瑛も彼女の体調を懸念に思っていたのだから。
『ご心配をおかけいたしました
もう随分と良くなりましたので、近々戻るつもりです』
「そうですか」
安堵の表情を浮かべ、絳攸はまた笑みを浮かべた。
それを目の当たりにした婉蓉は、珍しい事が続くものだ、と胸中で呟いた。
女人嫌いを豪語する李侍朗が、少しだけだが女人に心を開いてるという事実を嬉しく思う。
そんな彼女の心中など知らぬ絳攸は、小さく礼を取ると秀麗が待っているだろう室へと使用人に案内されるがまま向かった。
絳攸の後姿が見えなくなるのを見計らって、婉蓉は大きく息を吐き出すと中にいるであろう人物に声を掛けて室の扉に手を伸ばした。
中にいる人物―紅黎深―から紡がれる言葉に身構えるようにして…。
『お久しぶりでございます、紅尚書』
中に入って直ぐに、婉蓉は礼を取ってそう告げた。
「体調はよさそうだな…」
むすっとした声音で言われた言葉に、婉蓉は本当に驚いた。
以前の様に冷たい言葉を向けられると思っていたが、自分の兄の事を知ったのだと言うことを脳裏に浮かべた彼女は表情こそ変えなかった。
『御屋形様のお陰でございます』
辺り障りのない返事をすれば、黎深はフンと鼻で返事をして顔をそらした。
自分の表情を知られないように、しっかりと扇で顔を隠して―。
「あの少年はもういいのか?」
二人の沈黙をかき消すように奇人は問う。
先程、彼の耳にも届いた琵琶の音が聞こえなくなり問題はないということがわかったが、それでもやはり幼子の体調というのは、中々山の天気の様に変わりやすい。
その上、彼は非常に分別のある人物である為、自分の顔を酷評した人物であろうと体調を心配するのは当然だった。
『はい、熱も下がり、今はぐっすりと眠っております
次に目を覚ますときにはもう何も心配はないでしょう』
ニッコリと微笑むその表情は、やはり兄と似ている、と奇人は思った。
優しい彼女の兄の笑みを思い浮かべながら、奇人は胸中で呟いた。
それは隣にいた黎深も同じであった。
(まあ、悠舜の妹というのも満更でもないようだな…)
ちらりと彼女を一瞥すると、黎深は小さく自身の胸の内の言葉に納得した。
彼女の顔の造形が人より美しいことは黎深も知っていた。
彼は特に人の顔について別段好みなどなかった。
いかに顔を美しくとも、彼の前では何の意味を成さないのだ。
だがそんな彼も、目の前にいる二人の美貌については人並みの感覚を持ち合わせている。
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