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別室にて奇人は書物を読んでいた。
秀麗はその奇人の美貌にやっと慣れ、茶を注いでいた時に丁度その琵琶の音と歌声が耳に届いた。
「これは…」
「婉蓉様…相変わらずお上手ですね」
奇人の言葉に続けるように秀麗は言った。
聞こえてくる歌声や調べは聴いたことのないもの。
それでも、その歌声や調べが子守唄であり、未だ目を覚まさぬ曜春という少年の為に紡がれたものであることはすぐに理解できた。
(後宮で育ちながら、慈愛の心まで失わぬ、か…)
つい先日彼女の女官としての心構えを聞いた奇人は、彼女の女性としての母性と優しさを知った。
(不思議な女人だ…まるで天女の如く清らかな心に、女神の如き慈愛の心
なんと素晴らしいことか)
今まで出逢ったどの女人よりも美しく、聡明で、気高く、そして優しい人。
奏でる琵琶や紡がれる歌声が美しいのも理解できる。
けれども、自分の為に奏でられたわけでもなにのに、不思議と自分の心に暖かい“何か”が掛け巡る。
彼女のソレは、もう成人してから十年以上も経つ奇人の心を打ち、何年も会ってない母を思い浮かばせた。
それは傍にいた秀麗も同じだった。
「母様…」
秀麗はポツリと呟いた。
母が亡くなってから十年以上が過ぎようとしており、つい先日母の死の悲しみを乗り越えたと言うのに、何故か無性に母に会いたくなった。
不思議な子守唄だった。
今まで聞いたこともないような唄に、外つの国について詳しい彼女なのだから異国の子守唄なのだろうと思った。
彼女の博識さには本当に驚かされる。
けれど、今はそんなことよりも、母を思い浮かばせるこの子守唄をもっと聴きたいと思った。
ツと涙が頬を伝った。
人前でなんて事――まるで幼な子の様だ、と羞恥に頬を赤く染め、すぐにその涙を拭い何事もなかった様に茶器を手に取る。
茶器を差し出せば、目の前の美貌の青年はすっと優雅な手で茶器を口元に運ぶ。
それがある人物と重なり、不意に言葉にしてしまった。
ギクリと青年の身体が固まった。
そんな彼の様子など気付かず、秀麗はポツリポツリと自分の知り合いの話を始めた。
「その方、ちょっと変わったお方なんですけど、とても仕えがえのある人なんです」
誰よりも早く仕事場に来て、誰よりも仕事をして、厳しいけれど理不尽な行動は絶対にしない。
無口だけれど優しい人。
彼の人となりを語る。
そして、いつかあんな人の下で働けたらいいな、と叶わぬ思いを告げた。
「……その主もそう思っているだろう」
表立ってはいえないが、彼の真実の言葉だった。
そして、先程の彼女が恥じた涙を気にすることはないと彼は言った。
「私も、彼女の調べと歌声を聴いていたら、不意に母を思い出した
何年も会っておらず、つい先程までは気にもかけていなかったが、元気にしているだろうかと思った
お前は私よりも若い上に、女人だ
母を思う気持ちが私よりも強いの当然のこと…何も恥じる必要はない」
優しい声音で紡がれた言葉に、秀麗は嬉しくなった。
母を思い出したのは自分だけではないことを知ったからである。
けれど、それ以上にこんな風に誰かの心にそっと入り込んで、家族や故郷を髣髴とさせる彼の人の演奏と歌声に、憧憬の念を再度抱いた。
(やっぱり、婉蓉様って素敵な人)
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