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籐香宮に着き、二人に礼を述べた婉蓉は、一人静かに寝台に雪崩れ込んだ。
そしてそれまで我慢していた涙が、枷が外れたように零れ落ちてきた。


(あのような言葉、妾が偉そうに言う資格などないのに…)


絳攸に対して向けた言葉を思い出しながら、婉蓉は嗚咽を堪えながら泣いた。

女官長という地位に就いている、ただそれだけが二人の前で泣かずに済んだのだ。
香鈴の前で泣いてしまったけれど、殿方の前で涙を流すなど、彼女の矜持が許さなかった。

必死に耐えてきたものが今は止めどなく零れ落ち、寝台にポタポタと染みを作る。


愛していたのだ。
本当に、本当に愛していたのだ。

それ故に辛くて、苦しくて、悲しかった。
この十三年、何度も忘れようと努力した。
時には恨み言を口にしたこともあった。


叶わない想いなど抱いても仕方がない、去り際に振り向いてもくれなかった人を想っても意味がない。


そう、自分に言い聞かせて。
けれどそれは間違いだった。

愛されることを前提として誰かを愛していたのは自分だった。
貴妃に対して抱いていたものは、まさに自分のことなのだ。


“―想いを返されるから、人を好きになるわけではないでしょう?
あの方に御逢いできて、わずかながらも共に時を過ごせました

本当に、大切にしていただきました
これ以上を望むことなど、どうしてできましょうか…”



香鈴の言葉が脳裏に浮かんだ。
まさにその通りだった。


どうして、出会えたことだけでも、と思えなかったのだろう。

どうして、わずかながらも共に時を過ごせた、と思えなかったのだろう。

どうして、大切にされていたのだから、と思えなかったのだろう。

どうして、思い出を大切にできなかったのだろう。


どうして、どうして、どうして―。


なんて傲慢で、我が儘で、自分勝手な思いなのだろう。
なんて自分の心は醜いのだろう。


婉蓉は泣き続けた。
自分の心の醜さに、そして今まで泣けなかったこれまでの我慢を発散させるように。

泣き疲れてそのまま眠ってしまうほどに、婉蓉は泣き続けた…。









『…ん…ッ!!』


婉蓉はガバリと身を起こした。
いつの間に泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。

寝台に程近い窓から外の様子を伺ってみれば、夕暮れ時なのだと分った。
すぐに身支度を整え、事件の後処理に向わねばと鏡台の前に踵を返す。


 ―パサッ―


何かを落とした音に床に視線を向ければ、婉蓉は一瞬動きを止めた。


―藍色の腰紐…男物の―


かつて愛する人と初めての夜の記念にと交換したもの。
以前は見るのも辛くて、いつも布に包んで持ち歩いていた。

けれど今は違う。
クシャリとした破顔を浮かべながら、ゆっくりと床に落ちた腰紐を拾い上げた。

まるで壊れ物を扱うようにそっと腰紐に指で触れて汚れを払い、手拭いに包んでそっと胸にしまう。


『不思議ね、以前はあれほど辛かったのに…今は穏やかな気持ちでいられる』


愛しい人を見つめる、そんな優しい微笑を浮かべながら、胸にしまった腰紐を抱きしめるように両の手でギュッと押さえ込む。


(最後に泣いたのはいつだったかしら
そういえば、五年前に泣いたきりだったわね…ふふっ)


こうしてかつての自分を笑うこともできる。
自分に必要だったのは“泣く”ことだったのだと、今になってわかった。

忘れよう、忘れようと言い聞かせるだけで声を上げて泣こうとはしなかった。
女官としての矜持がそれを許さなかったのかもしれない。


けれど、今日泣き疲れるほどにこれまで溜めていたものを発散させたためか、婉蓉の表情は晴れやかで穏やかなものだった。


(忘れることなどできないわ…
あの方を愛しく想え、大切にされたことを忘れるなど、どうしてできましょう

あの方に御逢いして、愛するということ、大切にされることの喜びを知った
それは、妾にとって掛け替えのない大切な思い出…
この思い出と共に、妾は前に進むのだわ)


それは十三年越しに見出した、彼女のただ一つの真実だった。
とても長かった。
けれど、長い時間をかけて今やっと、彼女はかつての“恋”とけじめを付ける勇気を得たのだ。

これからも、またあの方を想って涙を流すかもしれない。
それでも、もう以前とは違う気がする。
そう思える程に、彼女の心は晴れやかなものと化していた。


もう一度、婉蓉は穏やかな笑みを浮かべて鏡台へと歩を進めた。
事後処理に、静蘭の様子見、貴妃の看病とやらなければならにことは沢山ある。

もう氷の仮面も必要ない。
彼女はいまやっと、本来の自分を取り戻して新たな一歩を進もうとしていた。



To be continue...


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