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『李侍朗は、恋をされたことはございますか?』

「恋、だと?」

『その様子ではないようですね』


氷の仮面と称される表情の乏しい婉蓉は、初めて絳攸の前で穏やかな雰囲気を纏いながら笑った。
小さく、まるで花が綻ぶような柔らかな表情―。


―ドクンッ―


その表情を近くで目の当たりにした絳攸の胸は、大きく高鳴った。

楸瑛にからかわれて顔を紅く染めるのとは異なる、ジワジワと胸から全身に駆け巡る“何か”が、彼の頬を紅く染めた。


「あなたは恋をしたことがあるのですか?」


自身の胸の高鳴りを知られぬように、絳攸は素っ気無く問うた。
彼の口から“恋”という言葉が紡がれるとは思っても見なかった婉蓉はハッと目を見開いた。
もちろん彼女を抱きかかえる楸瑛も驚いた表情を浮かべている。

だが、すぐに彼女は淋しそうに微笑みながらええ、もちろんと返事をした。


『妾がまだ、香鈴と同じ年の頃です…
叶うはずがないと、身分違いも甚だしいと分っていたにも拘わらず、お慕いしてしまいました』

「その方とは?」

『もう十三年も前に御逢いしたきり』


十三年、身分違いという言葉に、絳攸はふと清苑公子が頭に浮かんだ。
麗しい容姿に、公子一優秀で王の覚えもめでたい、そんな存在なら彼女が慕っても仕方がないと絳攸は勘違いをした。

それに気付いたのだろう、婉蓉は一言、清苑様ではございませんよ、といった。


「違ったのですか」

『あの方が妾のことをどう思っていたかなどは存じ上げません

けれど、妾はあの方が苦手でございました
全てを見下したような視線、まるで自分以外は全て無能だというような視線が…』


ほぅと小さな溜め息をつく。
次の句を紡ぐことはなかったが、彼女は“彼”が清苑だと気付いている。
二人はそう直感した。



『あなたは恋に現をぬかすなど―と、思われるかもしれません

確かに失うものはとても多く、何度も胸を痛める事でしょう
ですが…逆に多くのものを得ることもできます』


強い眼差しで絳攸に視線を向ける。
いつも苦言に満ちた表情で見つめ返す彼だが、今は真剣な表情を浮かべている。


『あなたは文官で、後により高位な地位を賜ることになるでしょう
官僚ではなく、れっきとした政治家に…

その時、あなたが恋というものを知っていればより好い政策を打ち出すことができます

なぜならば、あなたは何かを“慈しむ”という想いを学んだのですから』


慈しむ、小さく口の中で呟く声が、楸瑛と婉蓉の耳にも届いた。

吏部侍朗という高位の官位を賜っているが、それでも彼の立場は官僚と政治家の狭間のようなもの。

いつになく真剣な眼差しで自分に言葉を向ける婉蓉に、絳攸は素直に胸に刻んでいた。


『誰かを愛し、慈しむ心を知ったとき、あなたは人としても大きく成長をなさいます

その想いはやがて…国を、民を慈しむ心へと成長を遂げるでしょう』

「国と民を慈しむ…」


今まで考えたこともなかったことに、絳攸の瞳が揺れた。

ただ、自分を育てくれた義父への恩返しのために官吏になった。
義父のために、義父の力になれるように―そう思い続けていた。


確かに、自分には何かを慈しむという想いが足りないのかもしれない。
女などと、今まで卑下したり見下し続けてきた。

けれど、今いる目の前にいる婉蓉にしても貴妃として入内してきた秀麗にしても、自分が今までに見てきた女人とは違った。

それは彼の女人に対する考えを改めるほどの存在だった。


『愛する人を守る為に、愛する人が苦しむことなく済むように、そういった思いをこめて政策に打ち込むことができます
今のあなたとは違った視点で、ものごとを考えることも出来るようになります

何かを、誰かを守ろうと生きる人は、誰よりも強いのです』

「武官とて、同じですからね…」


それまで沈黙を保っていた楸瑛がポツリと呟いた。

いつも恋だの惚れただのと口にし、その度に絳攸は馬鹿にしていた。
けれど、今は何も言うことなく次の言葉を待っている。


「家族を、愛する者を得た武官の目は、他の者たちとは違う
妻や子、恋人を守るために鍛錬に打ち込む部下達の目はとても強い信念を感じるよ」

『今は理解することは難しいでしょう
けれど、どうかお心の片隅に、留め置き下さいましね?』


告げられた言葉に絳攸は小さく頷いた。
二人はそれを優しい笑みを浮かべて見つめた。

いつの日か、彼が愛する人と出会えるように、と願いながら―。






 

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