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『貴妃様、ご機嫌は如何でございますか?』
その日の夜、婉蓉は秀麗の室へと訪れていた。
劉輝が“昏君”のフリをしていたという事実を知ったことで、怒りを爆発させていたことを心配してのことだった。
「全然ッよろしくありません」
言葉遣いが崩れていないのがせめてもの救いである。
傍にいた珠翠は正直にそう思った。
「…女官長は知っていたのですか?」
『はい』
「どうして…?」
劉輝が仕事をしなかったのに、あなたは何も行動しなかったのか、と言いたいのだろう。
いつにない鋭い、怒気を孕んだ瞳で見つめてくる。
自分の感情に正直な少女が、この時ばかりは婉蓉は羨ましく思えた。
『妾が何もしなかった、と仰りたいのですか?』
紡がれた言葉で、秀麗はやっと自分が何を言ったのか理解した。
目の前にいるのは、後宮内、ひいては外朝にまでその名を轟かす美貌の才媛。
その彼女が何もしなかったはずがない。
直ぐにごめんなさい、と身を小さくして秀麗は謝罪の言葉を口にした。
『貴妃様で無理ならば、譲座しかないと考えておりました…』
ハッと秀麗の瞳が大きく見開かれた。
傍で佇む珠翠も同様に瞳孔を開くものの、瞳を伏せている婉蓉は気付かずにそのままは続けた。
『劉輝様は“外”を存じ上げません
生まれてから、一度も王宮から出られたことがないのですから、当然です
そして、妾も同じです
五つの頃より後宮にて宮仕えをしておりました故、妾も外は全くと言っていいほど存じません
ですから、妾が何を言っても意味がないのでございます
加えて、妾は劉輝様のこれまでを傍で見て参りました
同調してしまったのか…最低限の政務しか強制することは出来ませんでした』
それきり、彼女は口を閉ざした。
初めて耳にする彼女の心境に、秀麗は驚いていた。
聡明で教養高い彼女がいながら、なぜ劉輝はこうなってしまったのか―。
けれど、今の言葉で納得した。
彼女は確かに美しく聡明で、教養高く所作も素晴らしい。
だが、彼女とて出来ないことがあった。
そして、それをどうにかしようにも出来なかったのだ。
彼女は劉輝と近すぎていたのだ、と―。
沈黙が続く中、室に入ってきた香鈴がそっと茶を差し出してきた。
香り高い茉莉花茶だろうか。
空気に乗って届く香りがそう感じさせた。
神妙な面持ちで話をする貴妃を思っての行動だと婉蓉は思い込み、目の前に出された茶器をそっと手に取り、一口含んだ。
『ッ!!!』
茉莉花茶を一口含んだ直後、その味に違和感を感じた。
そして、現在自分と貴妃の置かれる状況を瞬時に理解した。
自分達が、誰に囲まれているかを―。
『げほっ…貴妃、様ッ…』
――ガシャンッ…
飲んではいけません、そう言おうとしたが声になることはなく、そして既に遅かった。
茉莉花茶を一気に飲み込んだのだろう、ゆっくりと秀麗は床に倒れていった。
自身も微量ながら飲んでしまい、よほどの毒が混入されているのだろう、薄くなる自身の意識を必死に保ちながら這う様にして秀麗の元へと近づこうとする。
『貴妃様ッ…しっかり、なさ、て…』
言い切れる前に、婉蓉は秀麗と引き離された。
その人物は―。
『珠、翠ッ…何を!』
「婉蓉様、これをお飲み下さいませ」
問いただす暇も与えられずに、無理やり薬湯を飲まされる。
流産の一件以来、婉蓉は毒の耐性を身に付けていた。
それは二度と政治の道具にされぬように、自分の身を思う主の心の負担を少しでも軽減するためだった。
その婉蓉に薬湯を飲ませるということは、茶に含まれたものが“それ程”のものだということである。
――自分にではなく、貴妃に
女官長という立場を誰よりも自覚していた婉蓉はそう告げたにも拘わらず、珠翠は彼女に飲ませた。
「少しの間、お眠り下さいませ…」
悲哀に満ちた表情でそう告げるものの、意識が霞んでいる婉蓉の耳には届かなかった。
ダランと力を失った身体をそっと床に横たわらせると、珠翠はすっと香鈴に視線を移した。
To be continue...
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