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婉蓉が室を去った後、香鈴にお茶の片づけをさせ二人きりになった珠翠は神妙な面持ちで秀麗と面と向かった。
「何、どうかしたの?珠翠」
急に表情を強張らせた珠翠に、秀麗はこれから言われる言葉に気付いている様子は全くない。
自分は何も粗相はしていないという自信か、いや恐らく何気なく自分が呟いた言葉に婉蓉が苛立ちを覚えたことにすら気付いていないのだろう。
「秀麗様、先程“何でも出来る”と女官長を仰いましたね?」
コクリと頷く秀麗。
正直にそう思ったから口にしたのだが、何か気に障ったのだろうか…と呟いた。
「女官長は何でも完璧にこなされます
それが、婉蓉様があの若さで女官長の地位にたっても周囲から何の反論も出なかった証拠です
けれど、女官長は始めから何でも出来たわけではありません
努力をしてきたからですわ」
(私だって幼い頃、体調のいいときに折を見た母様が厳しく指導してくれたから、この所作を自分のものにしたのよ
それが努力の賜物だって分かるわ…)
珠翠の言葉に、秀麗はどこか苛立ちを抱きながら思った。
だが、次の言葉を聞いて流石に自分が悪いと理解した。
「事実、私が後宮に上がったとき、彼女は既に高位の女官でした
これは年嵩の女官から聞いたのですが、婉蓉様は五つの頃に後宮にお上がりになり、そのとき既に所作は完璧だったと・・・
これは、物心がつく前から身体に滲み付く程まで努力に努力を重ねたいたからです
入宮後も、女官の仕事を終えてから深夜遅くまで、府庫からこっそりと借りてきた書物を読みながら勉強をされていたそうです
秀麗様は何気なく口にされた言葉かもしれませんが、先程の言葉は婉蓉様のこれまでの努力を無視したお言葉でした」
秀麗は言われて初めて気がついた。
自分だって、夜遅くまで勉強した。
努力に努力を重ねて、子供たちに教鞭を取れる様にまでなったのだ。
それを“何でも出来るのね”の言葉で片されてはたまったものではない。
自分の言葉がいかに彼女を不愉快にさせたのか、秀麗はこの時やっと自覚した。
「どうしよう、私…女官長を傷つちゃった
あ、誤りに行かなきゃッ」
ガタリと音を立てながら椅子から立ち上がり、出て行った婉蓉を追いかけようとした秀麗を、珠翠は腕を掴んで留めた。
「離して、珠翠ッ…」
「いいえ、行ってはなりません」
射るような強い眼差しに睨まれ、秀麗はその場から動けなくなった。
秀麗の手を優しく引きゆっくりとした所作で椅子に座らせると、珠翠は膝を突いて手をそっと握った。
「本来ならば、貴妃が何をしようと女官は何も言えません
先程の言葉が私達四人の内輪だけだったから良かった
これが他の女官―女官長を貴妃にと思う女官に知られれば、たちまち秀麗様の立場が悪くなります
そしてその貴妃を寵愛する主上の品位も問われてしまいます
後宮とは、そういう場所なのです…
今謝罪に行けば、間違いなくほかの女官に聞かれてしまいます
後宮とはそういう所なのです
女たちが王の寵愛を得ようと争う、謂わば戦場…
少しでも隙を見せれば忽ち追い込まれます
どうか御気をつけ下さいませ」
珠翠の言葉に、秀麗の涙を流した。
ただお金につられて入内してきた自分が情けなくてたまらなかったからだ。
彼女は女官と言う仕事に誇りを持っていた。
女官になる為には難関の試験を突破しなければならないが、どこかお嬢様たちの集まりだと馬鹿にしていたのだ。
けれど、馬鹿にされていたのはきっと自分の方だと秀麗は思った。
そんな優秀な女官であれば、自分がどういう経緯で入内してきた知っているはずだ。
“お金につられて後宮に来ようとは…”
などと呆れられたに違いない。
香鈴から、女官長は先王陛下に藤の衣を纏うことを許された佳人だと聞いた。
他の女官達も、彼女ひっきりなしに褒めていた。
彼女の奏でる琵琶の音色は儀式に使用できると仙洞令尹・羽羽に言わしめる程。
大官とも名高い門下省長官の旺季が認めるほどの才人で、藍将軍に叶わぬ恋心を抱いた女官にも優しい言葉をかけ、厳しい中にも優しさを持った人だと。
そんな人を自分の何気ない言葉で辱めただけでなく、自分が負けてないなどと傲慢な情を抱いてしまった。
恥ずかしくてたまらない、秀麗はそう思いながら涙を溢し続けた―。
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