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「随分と派手にやったね」
痛む拳に視線を落としていた皇毅に、ふんわり桃の香りが届いた。
またか、と思いつつも、いつもの事で……仏頂面で彼を迎える。
「まさか殴るとはね……」
皇毅の眉間に皺が増える。
その様子にクスリと笑うと、アン樹はお手上げとばかりに諸手を挙げて、また言った。
「冗談だよ、私の分まで殴ってくれればよかったのに」
ころころと笑いながら言う台詞ではない。
その証拠に、表情とは裏腹に瞳は笑っていなかった。
いつも以上に鋭さを含んだソレに、久方ぶりに皇毅の背筋に冷たいものが走った。
だが――。
「悠舜や陵王殿、それに旺季様の分までか――?」
ニヤリと珍しく笑う皇毅に、アン樹もまたゾワリと冷たいモノが背筋を襲う。
こんな風に笑う時は決まって何かをたくらんでいるときだと知っていた。
「前も言ったけどさ、ホント貧乏くじばっかりだよね……」
長官机に座りながら言うアン樹に、皇毅は何も言わない。
今更だと分かっていた。
何より、あの男が今も猶婉蓉を想っているのならば、身を引くべきだと思っていた。
けれど、何かせずには入られなかった。
この十四年余りの彼女を哀しみを思うと。
あの男も悩んでいたのだろう。
“龍”や長兄に諭され、泣く泣く彼女を手放したのも知っていた。
――それでも、許せなかった。
皇毅はずっと考えていた。
ナニが違うのだろうか、と。
彼女を愛する想いは負けていない。
それでも、彼女は自分を選んではくれなかった。
責めているつもりは更々ない。
それでも思ってしまうのだ。
自分とあの男のナニが――。
「君の心の中にある“不安”」
バッと皇毅が顔を上げる。
驚きに目を開く彼を、クスクスと笑い見下ろしながらアン樹はまた言った。
「君とあの男の差は、その“不安”だよ」
まるで自分の心の中を読んだような言葉に、皇毅は恐ろしくなった。
なんなのだ、この男は――と思わずにはいられなかった。
だが、アン樹の言葉にどこか納得した。
家の崩壊。
失った家族、名誉、誇り。
大切な家名の穢れ。
未だ付き纏う自身の将来に対する不安。
その背に、ただ一人で背負うには余りにも大きな、守りきれなかった過去の自分に対する罪と罰。
それが要因なのかもしれない。
彼女もまた、背負っていた。
自身の身体に流れる“血”と“役目”。
彼女の母が今際の際にも按じ続けていた“紫家”と“縹家”。
そして“紅家”と“姫家”。
その全てを、彼女もまた背負っていた。
そんな自分が彼女と一緒になれる筈もなかった。
彼女が望んだは、傷を舐めあう存在ではなく、彼女の不安ごと包み込んでくれる大きな存在――。
――まさにあの藍を纏う男だった。
それならば仕方がない。
当然なのだ。
痛む拳、痛む心にそう言い聞かせて、皇毅は薄っすらと笑みを浮かべた。
それに彼女が傍にいない分、これからの事に専念できる。
そう自分に言い聞かせて…。
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