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あれから十日――。
秀麗への国試不正の疑いも晴れ、朝廷は落ち着きを取り戻していた。
後任人事も行われ、以前と変わらぬ様子だった。
そんな最中、女官長の退任式が執り行われた。
何故こんなに早く、と多くの者が首を傾げた。
美貌の才媛、絶世の佳人、高潔の女官。
多くの言葉で揶揄された彼女が、後宮を、王宮を去る。
表立って姿を現すことがなかった彼女を、最後に一目見ようと多くの野次馬が奉天殿に集まった。
ザワザワと落ち着きのない官吏たち。
「女官長・婉蓉様、御入殿でございます」
新たに礼部尚書に任官した魯尚書の粛然とした声が響き渡る。
奉天殿には冷たい沈黙が走り、彼女が入殿して来る扉に一斉に視線が向けられた。
キイ、という扉の開く音に続いて姿を現した意中の人物に、その場にいた多くの者が目と心を奪われた。
先王に下賜された藤の衣を纏う、艶やかな美貌。
清麗とも揶揄される彼女の美貌だが、今日だけは婀娜めていて見えた。
シン、とは走る沈黙。
「…美しい…」
誰かが小さく囁いた。
それに乗じる様に、また一人、また一人と彼女の美貌を称える言葉を紡ぐ。
そんな野次馬の言葉に耳を傾ける事なく、婉蓉はゆっくりとした優雅な歩行で進み、玉座の前で足を止めた。
美しい、彼女の代名詞とも言われる見事な所作で拝礼を行う。
「面を上げよ」
緊張からか、それとも惜別からか、震える声で劉輝は言った。
その言葉に導かれる様に、ゆっくりと婉蓉の花の容が挙がる。
誰もが感嘆の息を溢した。
彼女の美しさに――。
玉座にいる劉輝の心がザワリと啼いた。
いつも見慣れている筈の婉蓉だが、こうして上座から構えてみる彼女がこれ程美しいとは思っても見なかった。
もう、こんな風に彼女を見る事も、見上げられる事もないのだ。
彼女この場所にいる、それがその事実を彼の心に刻み付けていた。
「…よく、今まで仕えてくれた」
搾り出された声は、どこか涙を携えている様にも聞こえた。
上座に座す劉輝の声に、婉蓉にはそう感じた。
『二十と余年……陛下が御生まれになる前から、奥宮で仕えて参りました』
どこか懐かしむ様な表情。
穏やかな表情は、この20年余りの記憶が走馬灯の様に浮んでくるのを想っての事だった。
「余が生まれる前から、か…」
『陛下が御生まれになられた時の事は、今でもよく覚えております』
「余が…生まれた時?」
初めて聞く内容に、劉輝は興味深しげに問うた。
今まで聞こうともしなかった。
過去は辛いものばかりだと決め付けていたから。
二人だけの世界になりつつある奉天殿。
だが、誰も咎めようとはしなかった。
咎めるはずもなかった。
彼女は王の傍で、永い永い間仕えてきたのだ。
その王と、今生の別れをするのだから――。
『妾が初めて赤様をこの目で、間近で拝見したのも、陛下でございました
大きな御声で、健やかな泣き声をあげる若子様で……
今は精悍な御顔立ちでいらっしゃられますが、あの頃は本当に、愛嬌も零れる落ちるほどの愛らしくていらっしゃいました
幼さ故に、人恋しさと、寂しさで震えていた妾に、いつも無垢な笑みを向けて下さいました』
―――どれ程勇気付けられた事か
『今でも、目を閉じれば浮かんで参ります
妾に向けてくださった、陛下のお優しい笑みが…』
愛らしい、愛らしい公子だった。
桜色の頬に、真っ白な肌、亜麻色の髪。
まるで姫君の様な赤子。
それは彼を愛した清苑ですら見た事もない、幼少の頃の劉輝の姿だった。
今はもう、彼女しか知る事のない、赤子だった頃の話――。
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