(1/4)



「婉蓉」


呼び止められた婉蓉は、後ろを振り向く。
そこにはいつもの様に気難しそうな仏頂面で佇む葵皇毅がいた。

その相変わらずの表情に自然と笑みが零れる。

後宮以外で彼が声を掛けてくるなど滅多にない。
その滅多にない事が今起きている。

脳裏を過ぎったのは、“アノ事”だろうと密かに心中囁いた。


『どうかなさいまして?』


いつもとは違う砕けた口調で言った。
婉蓉は時折、こんな風に口調を改めるときがある。

それは大抵、自分ではどうしようもなくて誰かに縋りたいと思ってしまう気持ちを隠すときだった。
今回も、自分では決められない、自身の今後について悩んでいた。

彼に縋れば、何かしら答えくれるのではないかと思ったのかもしれない。
それとも、逃げ道を言ってくれるのではと期待しているのか。

同時に、そんな自分を悟られるのが嫌で、どこか高圧的な眼差しに、ニヤリと口角を上げながら皇毅を見やる。
だが皇毅は動じる事なく、事もなげに口を開いた。


「内侍省が口を割ったぞ」

『ッ!!』


思いがけない言葉に、婉蓉は大きく瞳を見開いた。


『どういう事ですの!?』


興奮を抑えられずに、皇毅に詰め寄る。
震える手で自身の袂を握る彼女の手を、包み込むように両の掌で覆った。

表情からは読み取れないほどの優しい所作。


「場所を変えるぞ」


耳元で囁くと、御史台へと続く隠れ路を突き進む。
力を失くして佇む婉蓉の手を強く引きながら――。



その二人の姿を、回廊の柱の影から射る様な鋭い眼差しで見つめる男がいた。

流れる様な漆黒の髪に、すらりとした逞しい体躯。
人目で高貴な身と知れる所作に、相対する奇抜な仮面。


戸部尚書・黄奇人。

美しい手が色を失くすほどに強く握り締め、人を遠ざける程の怒気を纏っている。
そんな彼に気付いた皇毅は、チラリと視線を向けた。


(相変わらず間の悪い男だ…)


先の出来事は自分が画策してやった事だが、今回は完璧に彼の間が悪い。
婉蓉の為とは言え、惚れた女に二度も袖にされる奇人を皇毅は少しだけ憐れに思った。




『どういう事ですの?』


今度は眉根を寄せながら問いただした。
憂いの表情で己を見上げる婉蓉に、柄にもなく皇毅の胸がドクンと脈打つ。

この場で組み敷いてしまいたいと思っている自分に呆れる。


(本当に、男を煽るのが上手い女だ…)


本人は不本意であろうが、不思議と彼女は男の加虐心をよく煽る。
組み敷いて、肢体(からだ)を暴いて、犯して、自分だけを求めるように―――。

男のそんな欲望を煽る女。
後宮に住まうには向いていない女である。

最も、彼女をそんな女にしたのは他でもない、あの藍の衣を纏う男という事に腹立たしく思った。

一寸瞳を閉じて、息を吐く。
身体に沸いた欲を沈めると、皇毅は(おもむろ)に口を開いた。


「今回のお前への辞任請求は、あの浮遊クラゲが内侍省を煽った事が原因だ」


え、と小さく囁いた。
思っても見ない答えに婉蓉は戸惑った。
何故彼がそんな事を、と思った。

だが、同時に納得できた。
彼はそういう人なのだと、記憶の彼方に追いやった過去が(よみが)える。


『そうですか、アン樹様が……』

「撤回にはもう少し時間がかかるだろうが、お前が残りたいというのならば残れるだろう
降格は免れんだろうが」


(後宮に、残れる……?)


胸中で囁いた言葉に、ザワリと身体が騒いだ。
次いで、脳裏に浮かんだ期待に首を振って打ち消した。

高位に位置する者がそう簡単に自身の言葉を覆す言動をとってはならない。
だから、自分が後宮に残るわけにはいかない。

どのみち、自分には時間がない事も分かっているのだから。






← 

top

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -