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『美しい空ですこと……
今年の進士たちは、良き日に恵まれました』


婉蓉は凛とした声色で誰に言う訳でもなく、そっと囁いた。
誰もいない後宮の回廊に一人ポツリと佇みながら、庭園に緑葉を付け出した木々を見つめている。

視線の先になるのは、彼女を示す藤の花。

遥かな昔からこの地に根付いていたが、そろそろ寿命なのだろう。
去年よりも猶一層弱々しく思うのは気のせいではないと一人思う。


『年月の、何と甘美で残酷な事か…』


月日は誰にでも平等に流れるもの。
それは人だけでなく自然にも同じことだった。

永い間後宮にて妍を争う様に咲き誇っていた藤の花だが、それも老いが近づき始めているのだろう。

最も、次の開花を婉蓉が見る事はない。
春の叙目にあわせ、後宮を辞すと決めた。
王にもそれを告げた。

二言はないと決めた為、覆す事も出来ない。
本人は覆す気はさらさらない様であるが。


『もう、奉天殿で進士式が執り行われているでしょうね』


春に出逢った少女が、新たな一歩を踏み出しているだろう。
初の女人官吏に向けられる奇異と侮蔑。

そして探花で及第した事による、周囲からの嫉妬の嵐。
向けられる負の視線と感情。
そしてこれまで自分と親しかった者がどれ程遠き存在にあるのか、彼女はやっと知るのだ。


 ―自分の置かれる立場にも―


劉輝は気付いていない。
だが、聡い彼女ならばきっと気付く。

自分がどういう存在なのか、どういう立場にあるのか。

自分がこれからどうやっていかなければならないかも。
女人官吏がどういう経緯で登用されたのかを知れば尚更だった。


(劉輝様はきっと気付かれないわ…聡い方だけれど、そういう事にはまだ疎くていらっしゃるから)


貴族派、国試派の派閥争い。
見なくてもよいものを、これから嫌と言うほど見ていかなくてはならない。

それはある種、後宮にいた頃の方が楽だった思えるほどに―。
けれど、それでも彼女が前に進むだろうと信じて疑わなかった。


 ―官吏になりたい―


幼い頃からの夢と、二度と見たくない光景の為に。

そっと笑みが零れた。
どこか自嘲めいたそれに、婉蓉#自身も少しだけ驚いた。自分にこんな感情が残っていたとは思ってもみなかったから。


『さあ、前に進みなさい
先にあるのは辛く険しい道ばかり

時に悔やみ、涙し、自身の過ちを愚かだと思い、侮蔑の念を抱く事もあるでしょう
それでも前に進みなさい
進まなくては、先はないのだから』


届くはずもない餞別の言葉を呟くと、さっと踵を返した婉蓉はピタリと歩を留めると、誰もいないはずの壁に向かって言い放った。


『さっそくお仕事ですか?』

「どこかの莫迦の御陰でな」


フンと鼻息を漏らすと、回廊の柱の影からそっと姿を現した。
旭の紋を額に掲げる男。

御史台長官である、葵皇毅。

彼を見るにつけて、玄冥の様だと婉蓉は思えてならなかった。
冷たい表情も纏う衣の色もあるが、何よりも男が纏う冷たい、刺す様な気が冬を司る神の様に感じさせた。


『お疲れ様でございます、皇毅様』


にっこりに笑みを向ければ、冷たい顔(かんばせ)が少しだけ和らいだように見えた。


「いつだ?」


唐突な問いに、一寸何を問われたのか理解できなかった。
けれど、直ぐに何を問われたのかを理解した婉蓉は、春の除目の頃ですと答えた。


早く…嫁に来い


皇毅の小さな囁きは、彼女の耳に届く前に春の風によって掻き消された。

彼が何と言ったのかは分からなかった。
けれど、きっとこれからの事を問われたのだと、なんとなしに確信した。


彼の元へ嫁ぐのか、それともまた別の道を選ぶのか。

未だ決められないのは、かの人を思っているからなのか。
それとも、また別の人を自分は想いはじめているのか。

自分自身でも分からない。
答えの出ないまま、沈黙が走る。


「とりあえず、体調だけには気を付けろ
内侍省が煩わしいのは分かるが、下手に動けば奴らの思う壺だ

お前はただいつも通りに働いていれば問題はない……いいな?」


有無を言わせない口調に婉蓉は頷くだけだった。
最も、皇毅のこういった態度はいつもの事だった為、特に気に留めることはしなかった。


「お前は存外に無茶をするからな
しっかりと身体は休めろ」


頬を撫でる手は優しい。

いつもそうだと思った。
初めて会ったときから、彼はそうだった。

厳かな雰囲気を纏い、絵空事や奇麗事を厭い、常に他人に厳しく自分にはそれ以上に厳しい人。
けれど、いつだって彼の手は暖かくて、彼の言葉の端々には優しさが垣間見れた。


 だから甘えてしまう

 勘違いしてしまう

 分からなくなってしまう


この想いが何なのか。
愛なのか、それとも愛着なのか。

答えはいつだって、出てこない。






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