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仙洞省令君として貴陽へ向かう事を瑠花より命じられ、蓮は自室の整理を行っていた。
この五年で随分と身の回りのものが増えたな、と呟く。

神事に必要な書物、この国についての書物、縹家についての書物。
その多くが書物や木簡だった。

貴陽令君の任命、それは正確には自ら志願した事。
今の縹家で自由に動けるのは、自分をおいて他はいないと判断したから。

羽羽でもよいかもしれないが、だめだと判断した。
彼ではまだ若すぎる。

何より、羽羽が瑠花への想い、瑠花が羽羽に向ける想いを思うと自分が行くしかないのだと思った。


心残りはあった。
この暗き大宮に、瑠花を残して一人にするのが。

羽羽がいる。
憂う必要はないとわかっていうる。

ただ、今の羽羽を見ると不安に思ってしまう。
年頃の、思春期の少年。

それともう一つ――。


「蓮姫様ッ、本当に貴陽に向かわれれるのですか!?」


噂をすれば、といった所である。
彼女のもう一つの心残りは、この少年だった。

この縹家に身を置く様になってから、毎日の様に学問に励み、神力のない縹家の者たちに習って災害の救出へ向かっていた。

そして、この縹家で唯一己を“姫”と呼ぶ少年。


「羽羽から聞きました……本当に、本当に行かれるのですか!?」


不安に揺れる瞳で問う少年。
どうしてか、この少年の瞳に、声に弱かった。

真っ直ぐに己を見詰めるこの瞳が。
この暁色の声が――。


『……櫂瑜』


不意に囁いたのは、この少年の名前。
つい最近覚えて、いや覚えずにいられなかった名。

最初は気にも留めなった。
今までの男達の様に、袖にしていれば直ぐに己への興味も薄れると。

そう思っていた。
だから名前も呼ばなかったし、覚えるつもりも更々なかった。

それなのに、彼は健気にも自分を慕い、その柔らかな暁色の声で蓮姫様と呼び続けた。


“あの人”と重なる。
嘗て、唯一愛したあの人。
己を“ロザリー”という名で呼んだ人。


それが要因かもしれないが、蓮にとってこの少年はただ一人の“櫂瑜”だった。


『わしは、貴陽へ行く』

「蓮姫様…」


くしゃりと蓮は微笑んだ。
本当に、色鮮やかな暁色の声だった。

この想いが何なのか、今の自分には分からない。
ただの愛着なのか、それとも――。

答えは見つからない。
本当はここに居続けて、答えを探したかった。
けれど、それは叶わない事だった。


『今の縹家に、令君が勤まるのはわしだけじゃ
だから行くのじゃ…

縹家の誇りは、たとえ貴陽に向かおうとも薄れるものではない
男系の根強い貴陽へ、外へ出ようともな』


迷いもある。
未練もある。
それでも行くと決めた。

縹家の誇りの為、志の為。
何よりも、敬愛する瑠花姫の為に。
だから、この想いも封印する。


『健やかにな、櫂瑜

……わたくしの暁の君』


夜空に浮ぶ月の様に、柔らかな笑みを携えて蓮は言った。
いつも不機嫌そうに表情を歪め、倣岸な彼女が見せる本当の顔。

優しくて、穏やかで温かい、柔らかな笑み。


――わたくしの暁の君


櫂瑜が己を“わたくしの蓮姫様”と呼ぶに対して、彼の己への想いへの精一杯の返礼として。
彼の声色になぞって。

“あの人”と彼を区別する為に。
己の心に、彼を刻み付ける為に。







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