一番のひと









妹が家を出てから一週間。明日あたり様子を見に行こうと思っていた。大丈夫だろうか、何か大変なことが起きていないだろうか、ちゃんと生活できているだろうか。心配ばかり降ってくる。連絡がない、ということはそれなりにやっているのだろうけれど。便りがないのはよい知らせだ。いや、しかし何か事件なんかに巻き込まれていたら…ああ、考えるだけでおぞましい。止めにしよう。いずれにしろ明日には訪ねてみることにしよう。
そう決めた日の晩。ベッドに転がって、本を開き、上にかざすような体勢で読み始める。経済学について書かれたその本はやたらと厚く、支える腕が痛くなってくる。それと同時に、腹が満たされていることによって眠気が襲ってきた。あぁ、今日読むページ数の目標まで、後少し。後少し。後…。

「わ!っ?!!い゙っ…」

突如枕元で鳴る、普段はベッドから離れた机の上にあるはずの、Blauに連絡するためにたまたま側に置いておいた携帯。何が起きるかは明白。僕の顔面を直撃する、分厚い本。痛みに、眠気が吹っ飛ぶ。鼻が…鼻が痛い。誰だ、僕の顔面をいたぶった不届きな輩は。お前か、経済学。
鼻を押さえながら携帯を開くと、「Blau」の文字。直ぐ様通話ボタンを押す。

『もしもし、兄さ』

「もしもし、Blau、Blau、どうした、何かあったの」

『…何も無いよ。落ち着いて』

妹の呆れたような声が、電話越しに僕を宥める。

「何も無い…そう、よかった」

『…兄さん?』

「ん」

『なんかあったの』

「え?」

『…涙声じゃ、ないかな』

「僕かい?いや、今奇襲攻撃を食らってね…こんなもの、廃棄処分してくれる…」

『…?僕の所為かい?』

「いや。君は悪くない。携帯を鳴らした君より重力に逆らえなかった哀れな経済学が僕は憎い」

『…とりあえずスミマセン』

「君の所為じゃないよ」

そうだ、Blauは悪くない。悪いのはこの本だ。Blauをして謝らしめるなど、本にあらざる所業だ。…いや、今はそんなことはどうだっていい。

「Blau。何か、用があったんじゃないのかい」

『………』

「Blau?」

彼女は、唐突に黙ってしまった。これは何かあったんだな、と推察する。何だろう。傷付くようなことが、あったのだろうか。

「Blau。大丈夫かい?」

『…い』

「い?」

『イドに、会った』

「そうか……イド?イド?!」

驚いて僕は起き上がる。付いた手の下には、先程僕の顔面をいたぶった本の角が。再び僕は無言で身悶える。この本、後で絶対捨ててやる。

「…っ、イドって、イドルフリート?」

『そう』

「何で、急に…」

『隣の部屋だった』

「嘘…」

三年程前に連絡の途絶えた、僕らにとっては十ばかり年上の幼馴染。大事な、兄のような存在。
妹の、初恋の相手。

『兄さんも、このアパートにイドがいるって知らなかった?』

「知っていたら真っ先に君に教えているよ…!」

『…うん、そっか』

そうだね、と彼女は呟く。

「…Blau」

『ん』

「イドは、君のことは、知らないよね?」

『…ん、そうだね』

奇妙な質問だが、妹はちゃんと意味を汲み取ってくれた。流石。
イドルフリート。大事な、兄のような存在。大事な。ただ、僕らが物事の道理をわかるようになってからはいつも改善を求めていた一面が、彼にはある。彼は、女癖が悪い所があった。僕らが知っているだけでも、結構な数の女性と関係を持っていた(彼の話の内容から推測しただけなのだけれど、改善を求めればそうだね、と言っていたから多分間違いない)。何を求めてそんなことをしていたのかはわからないけれど、なかなかに危ない人物なのである。
そう、ここでご察しいただけるだろうか。僕の、心情を。

「Blau」

『…うん』

「絶対」

『…うん』

「絶対」

『…うん』

「ばらしてはいけないよ」

『……』

「君は確かにもう自由だ。もう偽る必要はないんだから、君が女性として生きることを望むなら僕は嬉しいかぎりだ」

『…ありがとう』

「ただ、だよ。彼の性格、知っているだろう」

『…うん』

「彼がそれを知ったとき、どんな反応をするかはわからない。けれど、悪い方向に進む可能性は大いにある、ということは忘れてはいけないよ」

『………兄さん』

「返事」

『……わかった。けど、兄さん』

「Blau」

『…ごめんなさい』

その反応からして、おそらく彼女はまだイドルフリートのことを好きでいるのだろう。それは僕にとって非常に気に入らないことだった。思わず語調が強くなってしまう。それに対しての彼女のへこんだような反応に、辛うじて我に帰る。

「…Blau」

『ん』

「明日、そっちに行ってもいいかい」

『…いい、けど…イド?彼は大抵部屋にいないみたいだよ』

「ん、イドには会いたいけど、それより君に会いたい。昼前に行くから、お昼一緒しよう」

『わかった。…恥ずかしいこと、言わないでくれないかな』

「恥ずかしいこと?」

『んん…僕も会いたいけれど、それにしても…』

「え?あ、あぁ、ははは!恥ずかしいのかい…かわいいね、Blau!」

『だ、だからそういうのが恥ずかしいんだ』

「いいだろう。かわいいというのは女性にのみ許された誉め言葉だ。男は言われたって嬉しくないからね」

『もう…兄さん…Rotは、面白いね…』

懐かしい呼び方を聞いた。Rotというのは、僕のあだ名。妹との区別をつけるため、赤い服をいつも着ていた僕の、幼い頃からのあだ名。ああ、やっぱり妹とは深いところで繋がっているんだな、とこんなところでふと実感する。本当に、負け惜しみなんかじゃなく。やっぱり僕らは兄妹だ。

『んー…Rot、僕はもう寝る、よ』

「そうかい。じゃあ、僕はこの書物を処刑してから寝るよ」

『ふふっ。…お休みなさい』

「お休み。よい夢を」

『兄さんも』

じゃあまた明日、と電話が切られる。あぁ、明日はBlauに会えるのか。楽しみで仕方がなかった。




−−−
お兄ちゃん地味に嫉妬



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