(イヴェサン)





違和感を覚えたのが二週間
ほど前。そういえば暗いな
、と思ったのが十日ほど前
。笑わなくなったと気付い
たのは三、四日前。思い返
してみればここ最近笑った
顔を見ていない。否、本人
はそのつもりはないのかも
しれない。笑っているつも
りなのかもしれない。けれ
ど、僕から見ればそれは口
の端を僅かに歪めているだ
け。目が笑っていない、と
いう感じ。今までの明るい
笑顔はどこに消えたのだろ
う。理由といえば、思い当
たらないわけではない。ち
ょうど二週間より少し前、
彼は仕事中に転んだ。ただ
転んだだけならまだいい。
後ろ向きに階段で足を踏み
外した。その場はとりあえ
ず僕が何とか転がり落ちな
いように上から手を引けた
から二人とも怪我はなかっ
たし、僕もたいして彼を咎
めなかった。なのに、多分
あれ以来彼は笑わなくなっ
た。


今日もほら、一緒に酒でも
飲もうって声をかけたら口
の端を歪めてうん、と返さ
れて。他愛もない話をして
、僕は笑ってみせる。けれ
ど、彼が笑わない。決して
その美しい藍色の瞳が濁っ
ているわけではないから、
彼も楽しんではいるのだろ
う。それでも笑わない。今
まで触れなかったけれど、
少し酒が入った頭でその無
性に苛立つ気持ちを抑える
ことなんてできなかった。


「ねぇ、何で笑わないの?



え、と目を見開く。笑って
るでしょ、ほら、とまた口
の端を歪める。笑ってない
、と言ってやったらそんな
こと言われても、と返され
る。


「普通に笑ってんだけどな



俺としては。だそうだけど
、今までと比にならないこ
の暗さまで誤魔化しきれて
いない。無自覚なのだろう
が、僕は気付いてしまった
んだ、残念ながら。この後
、少しの間堂々巡り。僕も
彼も譲らない。酒が入って
いるからか、お互い少し荒
い言葉遣いで、苛々が増し
ていくだけのようだ。


「あのさぁ、僕は別にあの
時転んだことなんて怒って
ないよ?あの後はうまくや
ってくれたし、ちゃんと仕
事も成功した。なのに何で
そんなに暗いの?そんなに
惨めなことだったの?」


その話を持ち出した瞬間、
彼の表情が凍り付いた。反
論したかったらしいその口
も開きかけて閉じられる。
沈黙が僕らのいる部屋を支
配した。僕がグラスの酒を
飲み干すと、彼が違うんだ
、と小さな声で呟いた。じ
ゃあ何なの、と聞くと彼は
僕が全く想像もしていなか
った言葉を放った。


「イヴェール、コンビ解消
しよう」






久しぶりに相方と大喧嘩を
した。別に俺は彼を怒らせ
たかったわけではないのだ
けれど、後半は最早売り言
葉に買い言葉。耐えきれな
くなって先に部屋を飛び出
したのは俺だった。


決して一緒にいるのが嫌に
なったわけではない。むし
ろ、逆。失うのが怖くなっ
て離れようとした。あの時
相方は本当に必死な表情で
俺を引き上げ、抱き留めた
。愛しいという感情には前
々から気付いていたけど、
あの時もうダメだと思った
。これ以上一緒にいて、そ
の感情が増してしまったら
、失う辛さに耐えられなく
なる。その前に離れたかっ
た。


飛び出した外は思ったより
寒くて、上着を引っ掛けて
くればよかった、と後悔す
る。もう行くあても帰るあ
てもない。挙げ句の果てに
文無しときた。餓死か凍死
だな、と街外れのベンチに
座って考えた。ぼんやりと
空を見上げる。空は晴れて
いて、星が見える。そうい
えば前に相方と一緒に見た
な、と思った。確か、あい
つ色んな星の名前知ってて
、教えてくれたよな、なん
て。頬に暖かいものが伝っ
ていると気付いたのは、溜
め息をついてから。


「笑ってない、か…」


俺としては、普通に接し、
普通に笑っているつもりだ
った。けれど、彼には中途
半端に見抜かれていたらし
い。悔しいような、寂しい
ような気分だった。






大分走った。しかも、持っ
た二人分の上着がやたらと
重い。寒いはずなのに汗を
かいてしまった。冷えたら
間違いなく風邪を引くだろ
う。そんなことを考えなが
らも更に走る。どこへ行っ
たのかわからない相方を探
して。もう酒場はほとんど
回ったし、まさかとは思い
ながらも春を売る店も回っ
た。けれど、いないのだ。
酔いは綺麗さっぱり醒めて
しまって、不安と後悔だけ
が胸に残る。


しかし、とうとう足の疲労
に気付いてしまい、座るこ
とのできる場を求めてふら
ふらと街外れに辿り着いた
。あぁ、そういえばベンチ
があったな、と思い出しそ
の方向へ歩くと、目的の場
所に捜し求めた影を見つけ
た。月以外に灯りが無く、
表情とか細かいところはわ
からないけれど、それが相
方であることは一目でわか
った。たまらなくなって、
声をかける。思ったより大
きな声が出た。


「…ローランサンっ」


綺麗な銀色が揺れる。月光
の所為もあるだろうけれど
、明らかに蒼白な顔が僕の
方を向いた。寒いだろ、と
近づいて上着をかけてやる
。あ、一枚は僕のだった。
まぁいいや。二枚とも貸し
てやろう。


「何してんの…」


答えは返ってこない。彼の
隣に座り、もう一度問い詰
めるように何してんの、と
聞いたけれど、やっぱり何
も答えてはくれない。


「サン、」


「嫌なんだよ、もう…」


僕の言葉を遮るように、よ
うやく彼が口を開く。確か
に彼は嫌、と紡いだ。あ、
僕が嫌だから、気分が悪く
て笑えなかったのか。気付
くの遅かった。そう思って
、それを声に出そうとする
と、彼がまた口を開いた。


「もう、お前のこと大切に
思うのは嫌だ。だって、も
う手遅れかもしれないけれ
ど、俺今の時点でこんなに
お前のことなくすの怖い。
もっと長く一緒にいたらど
うなる?おかしくなってし
まうかもしれない。…もう
、嫌なんだ。俺は、弱いか
ら」


そうゆっくりと言い終える
と、弱いから、ともう一度
繰り返した。その言葉を噛
み締めるように。心外だ。
てっきり、嫌がられてると
思ったのに。なのに今、彼
は僕のことが大切だから、
と言った。そして僕は、


「…それは、わからなくも
、ない」


そう思った。






相方の言葉に驚いて隣を見
る。わからなくもないとか
ほざいたかこいつ。


「…、どーいう、」


「確かに、怖いな。僕も、
君をなくすことが」


彼は俺の瞳を見ずに、空に
向かってそう呟く。


「僕も怖い。それくらい、
僕も君を大切に思っている
。けれど、だから離れたい
なんて僕は残念ながら思え
ないな。だって今は一緒に
いるじゃないか。なくした
ら、なんて仮定の話。なく
さないとは言いきれないし
、いつか別れは訪れるだろ
う。けれど、今は確かに僕
らは二人でいる。僕はそれ
だけでいい」


「っ、イヴェ」


名前を呼ぶほんの一瞬の間
に景色が変わった。体感温
度も変わった。上着の上か
ら温度のあるものに抱き締
められていると気付く。


「行くな、ローランサン。
勝手にいなくなるな」


勝手なのはどっちだ。俺は
離れたいと言ったのに、離
れさせてくれないなんて。
けれど、体温が、声が、そ
の言葉が、俺に届いてる。
言いたいことが、考えてい
ることが、彼の思っている
ことがちゃんと伝わる。彼
の背に手を回すと、彼が小
さな声で呟いた。


「君が戦うべきものは今の
弱さじゃない。未来に得る
べき強さの、糧になるもの
だよ」






「イヴェール!」


あー眩しい。なんだこの世
界。太陽が分身しやがった



「気持ちいいだろ!早く来
いって!」


確かに気象条件は最高だけ
ど、ここだけ日光が倍増し
てる。眩しい。


あの後、彼はまたちゃんと
笑うようになった。楽しそ
うに、嬉しそうに。一つ見
ることのできる表情も増え
たことだし、満足だ。


「…だよね、サン」


「は?何自己完結して…う
おっ」

手を引っ張って唇を彼のそ
れに寄せる。彼が顔を赤く
した。




さて、また僕のまわりにち
ゃんと明るさも戻ったし。
また二人で酒でも飲もうか
な。






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