(イドッテレ 若干コルイド風味)






ゆっくりと、仰向けの身体の上に体重がかかってくる。月の光のせいで、逆光で彼の顔は見えない。ここは井戸の底。その住人であるメルヒェンとエリーゼ嬢はどこへ行ったのだろう。
何十回と繰り返された状況に、焦りはない。極めて冷静な思考が、また彼を哀れんだ。
彼のこの行動の理由を僕は詳しくは知らなかった。度々森の教会、そして井戸を訪れることがあり、その度に大抵は彼にもメルヒェンにもエリーゼ嬢にも会う。今日はたまたま最初からメルヒェンとエリーゼ嬢がいないだけ。彼はメルヒェンとエリーゼ嬢がいなくなるといつも、この行動をとっていた。決まって僕を井戸へ引きずり込む。そして、僕を抱くなり抱き締めるなりして彼の衝動が落ち着くと、僕を解放するのだった。初めてやられたときは勿論驚いたし、怖かった。一度も僕のことを呼ばずに抱いたりするものだから。彼は声をほとんど出さずに事を終え、最後に小さく何かを呟いた。僕はその声を聞き取ることはできなかった。
今も彼は僕の上にのしかかったまま少しも動かずにいる。表情が見えないから、何を考えているのかも全くわからない。恐らく、遠い記憶に想いを馳せているのだろう。
そう、僕はその理由を詳しくは知らないというのであって、ある程度見当がついている。彼はもう死んだ存在だ。衝動としてこの世に縛られている屍だ。そんな存在であるからには、生前に何か強い未練があるのだろう。大切な何かを、遺してきてしまったのだろう。いつもいつもそれを思うと、今ここにこういった形で存在していて、その想いをこんな形で塗り潰すより他がない彼が、哀れで仕方がなかった。

「イド、痛いよ」

井戸の底の土に押しつけられた身体が徐々に軋んでくる。静かに僕は彼にそれを訴えた。僕の手のひらを包んでいた彼の手に、僅かながら力が入った。それから、ゆるゆると彼の身体が僕の方に向かい、重力に逆らわずに柔らかく倒れてくる。腕が背中に回り、抱き締められる形になった。どうやら今日は腰を痛めなくて済みそうである。

「…どうしたんです」

「……………………」

どんなに問い掛けても沈黙しか返ってこないのはいつものこと。しかし、僕は何度でも問うた。どうしたのか、何かあったのか、と。ごく稀に何でもない、と返ってくる。今日は返ってこない日だった。
ふと、彼の呼吸がいつもより微かに乱れていることに気が付く。元から死んでいるのだから、呼吸が必要な存在ではないのかもしれないが、それでも苦しそうなその音に僕は顔を顰める。

「イド、…イド?大丈夫ですか?」

腕に力を込めて、彼の身体を揺する。それに反応するかのように、彼の腕の力が強まった。ただでさえ彼のほぼ全体重がかかっているというのに、更に強い力で抱き締められて今度は僕の呼吸が詰まる。僕は生きた人間なのだから、呼吸を止められては困る。苦しいよ、と擦れた声を出すが、力は弱まらない。流石にもう我慢できず、僕はぐいと彼の身体を力一杯押した。すると彼の身体は僕の想像していた以上に簡単に僕の身体から離れた。また、ふりだしに戻った。相変わらず彼の表情は見えない。彼が口を開いた気配がした。一瞬のことだった。王子、と呼ぶ声を聞いたとき、どうしてなのか僕の意識は井戸に堕ちるかのように暗闇へと沈んでいった。


夢を見た。彼の夢だった。長く美しい金髪が風になびく。
彼は笑っていた。僕の前でよく見せる、自嘲の笑みではない。楽しそうに、誰かに笑いかけていた。
視界は広かった。見渡すと、どうやらそこは僕のよく行く街などではないようだ。見慣れない景色。一面、真っ青だった。空が広い。きらきらと水面が輝く、そこが陸の見えない海の上だと気付くのに時間を要した。僕は船になど乗ったことがないのだから。頭上に張られた白い帆も、新鮮だった。なのにどこか懐かしかった。
彼は楽しそうに笑ったかと思えばしかめ面で誰かに何かを言い、ふとまた楽しそうに笑っていた。時折からかうような悪戯な笑顔を見せる。色んな相手と会話をしているようだった。
彼の隣に、背の高い黒髪の男が立ち、紙を見せ彼と何かを話はじめた。彼も背は高めだが、それよりも大きい。僕の見ている角度からはその男は後向きに見えるため、顔は見えない。ふと、彼の表情が変わった。僕は見たことのない、柔らかい笑顔だった。優しげな、嬉しそうな表情。きょろきょろと左右を見回した後、ほんの一瞬、黒髪の男がこちらを向きかけた。
突如。その風景は僕の視界から姿を消した。真っ暗になる。
堕ちる。



「…イド」

目が覚めると、頬に冷たい感覚があった。彼の、温度のない手が触れていた。
状況は先程から何も動いていない。彼はまだ僕の上にいる。どれくらいの時間が経っているのだろう。井戸の中からでは、月の傾きもわからない。
は、と違和感に気が付いて自らの頬に手をやる。彼が僕の頬に触れていた訳がわかった。指先が、その水分をすくうようにすべった。

「っ」

「夢でも見ていたのかい」

抑揚のない声だった。

「あ」

彼が漸く身体を起こし、表情が月明かりに照らされる。努めたような無表情と目が合った。

「貴方の」

生前の記憶。抱く未練。視界の広い青。仲間の笑顔。誇り。
生きた世界。大切な人のぬくもり。
ぽろぽろと涙が僕の目下を伝う。彼は相変わらず無表情だ。

「貴方の、夢」

「…」

「夢を、見ました」

「夢」

「貴方の、」

「私の」

「夢…」

なんとなく、直感的に確信していた。あれは、あの夢は、生前の彼なのだと。彼の口から海の話など聞いたことはない。二人の時はともかく、メルヒェンたちがいて、まともに話をしている時ですら。しかし、あれは彼のかつての居場所だったのだと、なんとなくわかった。どうして自分がそんな夢を見たのかはわからない。生前の彼の夢など、どうして。そして、涙が溢れる理由も。わからない。彼の未練を知るが故なのだろうか。

「夢」

「貴方の夢を、見ました」

「…どんな」

「……海」

「…」

「船の上。真っ青な空。白い帆」

「…」

「貴方は笑っていた」

「…」

そして、何よりも僕の目に鮮明に焼き付いた、彼の笑顔の隣の、

「…黒い髪の、男の人」

微かに月明かりに照らされた彼の頬を、きらきらと光る水滴が一筋伝った。
ふ、と彼がいつものような自嘲の笑みを浮かべる。

「今日は衝動のセーブが効かない」

「…?」

「君にそんな夢を見せてしまう程度には、荒れているようだね」

「え、あ」

「…思い出してしまうからかもしれない。この、月明かり…」

「…………何を、」

「君の大切なものはなんだい?」

唐突な質問に、言葉が詰まった。

「大切な…?」

「そう。大切な、なくしたくないものはなんだい?」

僕は少し考える。本当に大切なもの。本当は僕が思うより少ないのかもしれない。

「…雪白姫、兄様、…メル、エリーゼ嬢、…イド」

ふふ、と彼が笑った。珍しく見せた、純粋な微笑みに見えた。

「……かつての私にもね、あったんだよ、大切なものが。かけがえのないものが」

彼の瞳が、空を仰ぐ。声は続いた。

「夢があった。叶えたい夢が。…夢を叶えてやりたい奴が、いたのさ。奴の夢が私の夢。奴が奴の目指す場所にたどり着いた時、私はその隣にいたいと思った」

彼の表情は見えない。

「私はね、航海士だったんだ。彼の船に乗る航海士であることがとても誇らしかったよ。奴を導いてやりたかった。同じ景色を見ていたかった」

声は微かに震えている。

「…だめだね。未だに諦められやしない。…だからここにいるのだけれどね。でも…いつまで経っても、消えない、私の光…私を駆り立てる、強い、光…」

彼の手が宙を切る。
実を言うと、今までも薄々感付いてはいたのだ。しかし、ここでそれは確信へと変化していく。
彼が僕にすること、抱いたり抱き締めたり、それらは全て他の何かへの、誰かへの想いを形を変えて僕にぶつけているのだということ。だから彼は僕のことを呼ばない。最後に呟くのは、愛しい人間の名。彼の表情を暗くするのは、海への想い。
彼の言葉は、途切れながらも続く。

「私はここに縛られている。海にはもう、永遠に行けない。ここから解放される瞬間、それは、私の消滅だから」

わからないけど、きっと、そう。
僕の目を見た彼の瞳は濡れていた。

「いつも、すまないね。君は生きているからなのか、…どうも、暖かくてね…。メルは傍にいてくれる。しかしそれすら有限だ。君など、儚いものに違いはないのにね…」

また、彼はゆっくりと僕を抱き締めた。今ばかりは僕の中にいつものような同情はなく、自然と彼の背に腕を回す。脳裏に浮かんだ黒髪の男の姿を振り払う。おそらくあの男も、彼を彼が僕にやるようにして抱き締めたのだろう。
彼の手が僕の服にかかる。あぁ、腰を痛めなくて済むと思ったのに。しかし、今回くらいは素直に付き合ってやろうと思った。


目が覚めると、教会の中にいた。井戸のすぐ側にある教会。外はうっすらと明るい。
のそのそと起き上がると、彼が隣にいた。歩けそうかい、と訊ねられて、曖昧に唸る。腰は痛いが普段程ではない。いつもより彼の抱き方が優しかったからだろう。普段から然程酷く抱いたりはしないが、それよりも優しかったのだ。
唐突に、すまないね、と謝られる。

「え」

「至極君には関係のないことで迷惑をかけた。まぁ、いつもの話だがね…。いや、しかし、すまなかった。ありがとう」

珍しくにこ、と笑い僕の頭を撫でる。礼を言われるなんて、初めてだった。プライドの塊のような彼が詫びた上礼を言うなんて。唖然、である。
ずっと、気になって仕方のないことがあった。答えを知りたいような、その答えを聞けば彼は遠ざかってしまうような。

「…あの」

「ん?」

無理やり言わせる気はありませんが、と前置きをして彼に問う。

「黒い髪の…」

「あぁ、ははは、わかった、もういい。うん、彼だよ、私の光は」

思ったより明るい返事が返ってきた。直後、繕っているのだとわかった。もうその話は終わりだということなのだろう。
彼が静かに僕を抱き締める。よくわからないけど、暖かいものがほしいだけなら拒む理由はない。
朝が来ることのないこの森に僕のいる世界の朝を告げるのは、微かな光だけだった。そろそろメルヒェンたちが戻ってくるだろう。僕も帰らなければ、兄様を心配させてしまう。目の下の隈は誤魔化せなくても、心配ないよと言わなければならない。事実、心配はないのであるが。
もう行くよ、と言って立ち上がる。よければまたおいで、とまた自嘲気味に彼が笑った。来たって僕を傷つけるだけだとでも思っているのだろう。そんな風には僕は思っていない。むしろ、彼の衝動をより深く知った以上、ここへ来ることについて不思議な使命感のようなものを感じる。それが不快なものでない限り、いくらでもここに来ようと思う。じゃあ五日後くらいに来ます、と告げれば彼は目を細めて僕の頬を撫でた。


救いにはなれなくても、せめて気を紛らわすことの役に立てたらいいなぁ、なんて思った。それなら悪くない、なんて思った。







(いつか朝焼けの海を貴方に)










×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -