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 そうしてわたしはお手伝いさんや爺がいるような家から離れた。電車というものに初めて乗り、揺られ、目的地についたあたりで少し不安になった。そこは自分の故郷とは似ても似つかない建物が建ち並ぶ場所だったからだ。
 しばらく呆気に取られていたが、兎にも角にも住居がないと始まらない。適当に道を行き、とりあえず見かけた不動産屋に入って、即入居可の家具付きワンルームを契約した。
 母様はわたしにある程度のお金を持たせてくれたが、必要な物を買い揃えるためにうろうろしただけで、それらがすぐになくなってしまうことは手に取るように理解した。だからすぐに就職活動をし、右も左もわからないままブラック企業の営業課に就職となった。
 デスクワークならぬデスワークの毎日に、電車は始発と終電の常連となった頃、冗談抜きで帰り道に道端で吐いていたら、カチリと聞こえたような気がした。
 わたしはその音を聞いたことがあった。昔なつかし幼少期に、松陽先生と彼に集う門下生らが真剣な面持ちで扱っていた刀から。
 口の端からだらだらよだれを垂らしながら見上げると、すっかり風貌を変えた男が立っていた。

「見覚えのある女だなと思ったら。急に吐くなんざ、みっともねえ」

 口の端を歪めて、厭らしく笑う晋助はわたしの肩を掴んで立ち上がらせた。未だ込み上がるものを感じていたわたしはそれを制止して、頭を垂れる。

「血反吐を吐きてえのはこっちも同じだ」

 目線を下げて、そこで初めて晋助の足元にぽたぽたと垂れる鮮血に気が付いた。げえげえと吐いてから口元を拭って、よく見れば真っ青な顔をする彼に問う。

「……匿ってほしいの?」
「別に、俺ァただ返しにきただけだ。お前が江戸にいると聞いたもんでな」

 晋助が懐から取り出したのは手ぬぐいだった。記憶の片隅では真っ白だったように記憶しているが、それは薄汚れてしまっている。それでも眩しかった。
 受け取りながら、わたしは迷うことはしなかった。

「ねえ、わたしの家に来てよ。手当てするから」
「……俺が今、どういう立場か知ってんのか」
「うん、でもわたしには預かり物返しに来てくれた旧友だよ」

 晋助は少し間を置いてから笑った。目は合わず、小さい笑みを零すその姿に彼は彼であることを痛感した。

 お互いに満身創痍で帰宅して、わたしは胃薬を空っぽの胃に水で押し込んだ。晋助の腹の傷には消毒液をぶっかけて、彼の歪む顔を見て思わず笑ってしまった。
 包帯を巻いてやったら「下手くそ」と晋助が言うので、わたしは「だって初めてだもん」と返した。それを最後に、しんとした静寂に包まれる。数秒見つめ合ったような気もするし、もっと長い時間だったかもしれないし、瞬きほどの短さだったかもしれない。視線が交わっただけで、わたしを纏う時間は正確に時を刻まなくなった。それに戸惑い始めたころ、彼はわたしを押し倒した。

「傷、開くよ」
「構いやしねえ」
「じゃあ、どうして?」
「お前は俺のことが好きだろう」
「……昔のことだよ」
「どうだか」

 ぬるりと滑り込んできた舌は血の味がした。初めてのキス、初めての男の人。合間に「高杉くん」と呼んだら「名前でいい」と許しをもらった。だから彼のことを晋助と呼ぶようになった。
 それから晋助は時折この家にやってくる。闇夜の中を音もなくやってきて、そのくせわたしを組み敷いて声を上げさせるのだ。
 きっと彼はわたしで埋めている。心の空白と乾きを、自分のことを旧友だと言った女の淡い恋心につけ込んで潤そうとしているだけだろう。それでもよかった。側にいられるなら。

 それを何度か繰り返したあとの今朝、珍しく晋助がわたしに「仕事に行くな」と言い出した。だけどわたしは先ほど説明したとおり、今日は絶対に抜けられない会議の予定が入っている。
 言い合っているうちにも家を出る時間が刻一刻と迫ってきていた。あと5分でこの、急にヤンデレ期に突入した晋助をどうにか説き伏せないといけない。非常に面倒くさい。

「ねえ、今までこんなことなかったじゃん。浮気しようがほったらかしみたいな感じだったじゃん」
「浮気してんのかテメー」
「ものの例えに決まってんでしょ! てかわたしたち別にそんな関係じゃないはず」
「それもそうだな。ならいいか」
「よくない、今のこの状況よくない! お願いだから。ほんっとうにお願いだから離してくれない?」
「ここにいるならな」
「それ本末転倒ォォオ!!」
「うるせえ黙れ」
「離せええ! わたしは出勤するんだァァア!!」

 晋助はわたしの腕を掴んで離さなくなった。だから子どもみたいにジタバタ暴れていると、急に強い力で引っ張られる。体勢を崩したわたしは晋助の腕の中へ、かと思いきやそのまま押し倒された。受け身なんか取れるはずもなく、後頭部を遠慮なくガツンと打ち付けた。
 痛みからかぼやける視界に映るは見慣れた天井と、とっても真剣な表情をした晋助だった。"なにをするんだ"と言ってやりたいのに、彼の薄い唇がわたしのソレを塞ぐ。手首を掴む力は強くて、呼吸はできない。痛い苦しい。だけど伝わらない。

 ピンポーン、

 ようやく唇を離してもらえたかと思ったら、この家のチャイムが鳴った。視線をそちらへやるも、晋助は上から退かない。

 ピンボーン、

 この状況下においては、間抜けな音が助けのような気がした。晋助の下から這い出ようと奮闘するも、彼はわたしをフローリングへと押し付ける。また口付けられて、酸素を奪われて、ふぅ、ふぅ、と荒く呼吸するのが苦しくて、

「七瀬さーん? いるんでしょー?」

 ドン、ドン、と扉を叩くような音と、その後に続いたのは低く、男性のものだった。聞いたことない声に、わたしはようやく動きを止めた。
 チッ、と晋助が舌打ちするのが聞こえる。

「ななこ、お前が選べ」

 名前を呼ばれたのは初めてだった。

「俺と行くか、俺に殺されるか」

 玄関からガシャン! と、思わず肩を震わせてしまうようなボリュームで、ガラスの割れるような音が響いた。

「え? なに、なんでよ…?」

 あれだけ上から退いてくれなかったのに、今度は乱暴に腕を引かれて立ち上がらせられた。その瞬間、靴のまま荒々しく人の家に上がり込んできたのは黒服を身にまとった男たち。
 彼らが何者なのか、深く考えずともわかった。

「今、お前をここに置いてはいけねェ。だから俺と来るか、……来ねえのなら、その男どもに触れられる前に殺してやる」

 ぎらりと光る隻眼はわたしを見つめてはいない。わたしの肩に指を食い込ませて、もう片方の手には抜刀した刃を握っている。



 ーーー何を、迷うことがあるのだろうか。

「ねえ、晋助、わたしを連れていって」

 置いて行かれたあの日から、わたしの心はどれだけ乾き、軋んでいたのか……あなたは知るはずもない。きっと透き通るような気持ちだったのに、あなたを思う日々が長くなるほどくすんで、関係性が変わったことで爛れて、元がどんな色をしていたのかもう覚えているはずもなかった。

「足手まといなら、いつでも殺していいから、」

 だから、側にいさせて。

 その言葉を聞いた晋助は笑った。いつか見たわたしとは目が合わない、はにかむようなものだった。

 だからわたしは幸せだった。例えもう、二度と太陽の光の下を歩けなくなったとしても、あなたがいれば、それで、

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