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 カツ、カツ、と音を鳴らしながらアスファルトを踏み抜く。わたしは必死だった。

 7センチのヒールが脚をいちばん綺麗に見せてくれると聞き、いつもその高さのものを愛用していた。しかも人の指よりも細いピンヒール。
 バランスを取るのに適度な筋力を必要とする履物で走る、という行為はいつもなら悲鳴を上げない腿やふくらはぎがビリビリと熱くなった。

 何故そんなに必死に走っているかというと、ものすごい形相をした男性に追いかけられているからだ。
 ”お前は僕の女だ! 僕だけのものなんだ!”
 男性は後ろでそう叫んでいる。彼の言う"女"とはわたしのことだ。
 仕事の邪魔にならないように後頭部で緩く纏め上げた髪を振り乱し、今にも折って地面につけてしまいそうな膝をなんとか突っ張り、痛む足の指の付け根を擦り減らして前へと駆ける、自分を表しているに違いなかった。

 振り返ることをせず、足を止めることもしないのは、すこうし小太りの男が切っ先の鋭い果物ナイフを手にしているから。それで、汗でぺたつくわたしの肌を狙っているからだ。
 あの、きっと蓄えた脂肪のおかげで逞しい、太い腕の中で最期を迎えるなど絶対に嫌だ。

 もういつ死んでもいいやと思っていたはずなのに。

 そんな状況で掠れた吐息を喉に貼り付けながら、思わず笑ってしまった。結局、人間というものは生にしがみついてしまうらしい。
 自分を振り返る皆が、何事かという目をしてこの状況を推測している。そして、派手な化粧を施し、余りの少ないぴったりとしたミニ丈のワンピースで逃げ惑う女と、それを追う、スーツに準じたオフィスカジュアルを着用した男の関係性を考えているはずだ。

 そんな無駄なことを思案しているであろう彼らに助けてほしかった。今にも転けそうな自分を抱きとめて、後ろの男を止めてほしかった。引き離してほしかった。
 でも誰もそうしてはくれない。興味を持ちながら関わることを避け、スマートフォンのカメラレンズを向けてくるだけだ。

 もう、無理だ。日頃から運動などしていない自分の体力は底を尽きそうだった。元より走り回れる装備ではないし、伸ばされる大きな手に掴まれ、捕らわれるのは時間の問題だった。
 予想より長く逃げ回れているのは、歓楽街で人が多いため男が上手くスピードを上げられないからか、男の方も運動不足だからかの一体どちらだろう。

 額から汗が伝い、目尻の化粧を滲ませて眼球に染みた。ウインクするように片目を細め、視野の悪くなった景色の中で前景を捉えていたからか、わたしはあるものを見落としてしまう。
 それはポッカリと口を空けた、マンホール。作業着を着用した男性たちが周りにいないにも関わらず錆びた蓋がズレており、そのど真ん中へ着地させようとしていた足の裏は空を切った。

 声にならない叫びを上げ、重力のままに真っ暗闇に吸い込まれていく。

 ーーーそうして、わたしは、


 そうして私は に落ちた

 

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