テニスの王子様 / 海堂薫
 わたしは目が良くない。だが悪いと言い切るほどでもない。日常生活に不便はないが、強いて言うならテニスなどの小さなボールを扱う球技が苦手だった。目標が離れるとぼやけるので、捉えているのが大変だからだ。
 元より興味はなかったし、むしろ運動音痴だし、体育の授業ですらサボりたいなあって思っていたほどだった。だから正直尊敬した。暑い日も寒い日も、なんの壁にも遮られないコートの中で一心不乱に走り回り、汗まみれで傷だらけになりながら小さなボールを追いかけていることを。



 薫ちゃんこと海堂薫くんとは、通っていた幼稚園が一緒で、小学校の校区がたまたま被って、そのまま中学校まで一緒だった。つまるところの腐れ縁だ。
 幼少期は女の子と間違われるほど可愛らしかった彼のことを薫ちゃんと昔は呼んでいたけど、いつからか睨まれるようになったのでやめた。海堂くんと呼ぶようになったけど、幼心に少し寂しさを感じたのを覚えている。
 彼との仲は微妙、その一言に尽きる。会えば挨拶するけどそれは、ただ単に彼が礼儀正しいだけだ。何回か一緒に帰ったこともあるけど、帰り道が一緒だったからだし、中学生になって部活が忙しくなるとそんなことはなくなった。

 薫ちゃん、薫ちゃん。町内のおばさまからは未だにそう呼ばれている彼の近況は、誰に聞かずとも耳に入ってくる。青春学園に入学したところまでは自分も一緒なんだから知っていたけど、テニス部に入部したこと、一年生ながらレギュラーの座に食らいつかんとしていることは周りから聞いて知った。

 わたしは美術部に入部していた。体を動かすことよりも同じ場所に留まって、じっと集中するほうが性に合っていたからだ。
 放課後はデッサンや水彩画、油絵など、美術専攻の先生の指導のもとひたすら絵を描いた。鉛筆や筆を走らせる音だけが響く室内に、テニスコートが近いのか活気ある声がよく届く。この中にはきっと海堂くんの声も混じっているのだろう。聞き分けることなんかできない。それほど、最近になって彼の声を聞いた記憶がなかった。



 部活にて。あるとき出された課題が、風景画を描くことだった。
「校内のどこかのポイントを選び、描きあげなさい」
 先生のそんな指示を聞いてから散り散りに散らばっていく部員の背中を眺めたあと、わたしは迷うことなくテニスコートに向かった。

 そこには思っていた以上に人がいた。季節はちょうど、わたしたちが2年生に進級した春。新入部員と同学年と先輩、その3学年が揃っているはずだ。彼らをじっと眺めていたけど、ふと我に返ったら自分がただ突っ立って男子たちを見つめている変なやつのような気がして、フェンス近くの適当な場所で座り込んだ。
 スケッチブックを体育座りした腿の上に置いて、フェンス越しにじっとテニスコートを見つめる。自然とある人物を探していた。そのうち発見したにはしたけど、想像と違って2度見してしまった。

 薫ちゃん。そう呼ばれていた頃とは全然違う、知らない男の人になっていた。小学校の高学年からクラスが違ったから、たまに遠目に見ることがほとんどだった。今も間近ではないとはいえ、その姿を横目ではなく真正面から捉えたのが久しぶりだったのだ。
 わたしより少し高いぐらいだった背はずいぶん高くなっていた。いつの間にかバンダナを愛用しているし、くりくりしていた目はキリッと切れ長で、唇を真一文字に結んでどこかを見つめている。ラケットを掴む手は、鉛筆を掴む自分の手よりもふたまわりほど大きそうだ。
 そのうち始まった練習では、鋭いほどの集中力を見せ、ひたすら目の前の球に食らいついている。その姿に見入った、いや、魅入った。自分の中の薫ちゃんが塗り替えられていく。

 こんなにもはっきりとした景色の中で海堂くんのことを見ていられるのは、この距離だからだ。今までなら、ぼやけてしまう距離で通り過ぎていく様を見ているだけだった。なのに突如、クリアーな状態で現れた彼に、自分の心臓は今までに聞いたこともないぐらい高鳴っている。
 そりゃあ、薫ちゃんと呼ばれるのは嫌がられるはずだ。もう、ちゃん付けされるような可愛らしさなんてなくなって、むしろ、

 震える手で鉛筆を握り直す。フェンスなんかなかったことにして、人の入り交じるテニスコートを描き写していく。彼らはみんな、ただの背景だった。ある人物にスポットライトを当てながらも、それを紙面に描き起こす勇気はなく、活気ある現実を目の前にしながらも閑散とした場面へと勝手に切り取っていく。
 夢中で描いた。ポン、と肩を叩かれるまで、時間を忘れるほど集中していた。

「こんなとこにいたんだ。テニスコート描いてたの?」

 同じ部活の女の子が、もう終わりだよと教えてくれる。頷きながらも言葉が出ない。カラン、とスケッチブックの上に鉛筆を置くと、指にくっきりと跡が残っている。
 立ち上がって、美術室へと足を踏み出しながら振り返る。賑やかなそこ全体を眺めていても、真っ先に目に入るのはあの人。



 ーーーぱちりと目が合う。

 ザッと風が吹いたみたいに、喧騒が掻き消された。ほんの数秒、見つめ合っただけだと思う。それでも思わず息を飲んで、まばたきを忘れてしまった。
 彼はすこうし頭を下げた。勘違いかと思うほど、僅かな角度をつけた会釈だった。それはきっと彼の真面目さゆえに引き起こされただけの動作だったと思われるが、わたしの心臓をまた高鳴らせるには十分で、、、



 その次の日から、先生から出される課題は室内で事足りるものばかりだった。いつものように集中し、いつものように耳に届く、激を飛ばす声にこれは海堂くんのだろうかと想像し、全くペン先が進まないことをどうしてくれよう。部活の時間が終わってもスケッチブックを持って、テニスコートを見に行ってしまうこの気持ちをどう紛らわせよう。
 思案するも答えは見つからないし、どうにもならない。くすぐったいようで、甘いようで、苦いようで。そんな気持ちを携えながら、わたしは今日も閑静なテニスコートを描き写す。
 もう目は合わなかった。それでもやめられなかった。わたしが変わったことといえば、ぼやける視界を明瞭にしようとコンタクトを使用し始めたこと。よりはっきりと見えるようになった彼に、いつか声をかけられたらいいな。
 そんな淡い気持ちを抱いてしまうのが、ある病のせいなのだと気づく日はしばらく来ない。
20181023
   
( back )
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -