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「銀ちゃん連絡つかないの。まだ寝てるのかなあ」

 友美の口から出た名前にどきりとした。彼女はこちらの様子に気づくことなく、ずうっとアイフォンを眺めている。わたしはただ笑って、首を傾げることしかできない。



 坂田くんを断って、友也くんと約束した日。遅刻した次の日だからと余裕を持って起床し、いつもより早めに登校した。そして無事に1限目の講義を受け終える。いつものグループで教室を移動していたら、友美が悲しそうな声を上げたのだ。
 坂田くんが朝から顔を出さないのは珍しいことではない。でも付き合っている相手ならもちろん気になるだろう。一方的な恋愛感情を持っただけでそう思ったのに、両思いなら尚更だ。

 そうこうしていたら始業のベルが鳴り響き、広い講堂の真ん中あたりで場所をとった。わたしは彼らのいちばん左側を選んだ。隣はその列の端まで空席だった。
 右隣では友美が相変わらず光る画面を見つめている。メッセージを受信するのを今か今かと待ち侘びている。教授が入ってこようとも待ち人は現れず、出欠の紙が回ってきた。念の為にと彼氏の分も取る健気な姿を一瞥し、溜め息を漏らす。

 余裕を持って起きられたなんて、嘘だ。
 寝る前にあんな電話をもらっては上手く寝付けず、少しうとうとできただけで、日の上がらないうちから目だけが冴えてしまっていた。だからすることもなくなって早めに登校した。睡眠不足のせいで頭は回らないし、ここでこうして座っているのもツライ。
 坂田くんの顔を見ないのは、申し訳ないけど安心した。風邪でもなんでもかかって、このまま休んでほしい。友美ならお見舞いに行ってくれるはずだから。

 だから、



「…セーフ?」

 願いも虚しく、低い声が鼓膜を揺らす。友美が嬉しそうに顔を上げた。無視するのも変な話なので自分も顔を上げたものの、どういう顔でそちらを見たらいいかわからない。
 わたしのすぐ隣に腰を下ろした坂田くんは、気だるげな目線を寄越す。反対側の彼女と席を代わりたかったが、それはできない。悩む時間はなかった。当たり障りのない表情といえば笑顔だ。必死で貼り付けたそれが引きつっていないことを祈る。

「おはよ」

 小声でそう言って、前を見た。坂田くんはカバンを背中から下ろすのに身をよじったから、高さが合わないはずの肩が不用心に触れる。それだけで自分の心臓は大きく鳴った。
 手のひらがじっとりと湿る。板書される内容を目で追うのに頭には入ってこない。マイクで拡張された声は右から左に流れていく。

「今どこ?」

 覗き込んでくる顔には、遠慮というものが感じられなかった。頬杖をついて目線を合わせて、捕らえられたら逸らされることはない。開けていた、教科書のページを見せる。

 本当に、やめてほしい。友美はわたしがあなたを好きだったことを知っている。告白して振られたことを知っている。そんな距離の近さを保たないでほしい。
 だけど、今は講義中だ。こうなっても仕方のないはずだ。自分を正当化し、なんとか背中を伸ばす。気を抜いたら机の上に突っ伏してしまいそうだ。

 そのまま身の入らない時間が過ぎていく。あるタイミングでトン、と小さな頭が触れた。息が止まるほど驚いたが、こちらに頭を寄せたのは友美だった。
 大しておもしろくもない講義を聞いていられなかったのだろう。そしてやってきた睡魔に負けてしまったのだろう。こくり、こくりと揺れていたがそのうち机の上に突っ伏した。

 右側の緊張が解けて、それを吐く息に紛らわせた。先程より少し心の余裕ができて胸を撫で下ろす。何気なくもう片方をちらりと見やって、どきりとした。そして後悔する。坂田くんの赤い瞳が真っ直ぐに向けられていたからだ。

 コツ、と音を立てて、ふたりの間に何か置かれた。目だけで確認すると坂田くんのアイフォンだった。その画面は白い。指先が文字をフリック入力していく。

 "友也と仲良かったっけ"

 手が止まって画面を傾けられると、そのシンプルな背景に浮かび上がっているのが見えた。仲良いもなにも同じグループで行動するうちのメンバーだ。確かにふたりきりで何かしたことはないけど、普通に会話するし本来ならこうなっても不自然ではないはずだ。
 しばらく悩んだもののここで無視できるような度胸はない。その下へ改行して、同じように打ち込んだ。"普通だよ"と。他に言いようはなかった。実際そう聞かれてしまうのも頷けるような間柄だからだ。友也くんと呼んで同じグループなのは名ばかりで、そのへんの男子と大して変わらないような距離感を持ったままなのだ。
 わたしの返事をしばらく眺めていた彼はまた画面に触れた。滑る指先に迷いはない。

 "今度いつひま?"

 今度はこちらが画面を、穴が開くほど見つめる番だった。…誘うって言ったの本当だったんだ。
 わたしたちはこの大学で集まった、仲の良いとされるグループである。示し合わせたように毎日行動を共にしているんだから、何か話があるならここに来るだけでそうできるはず。彼のその話したいこととは、わざわざ予定を取り付けないと言えないような内容なのか? こうして、友美が居眠りした頃を狙ってやりとりしなければならないような、そんなことを言われる気力なんかもう残っていない。

 "しばらくバイトで忙しくて無理かも"

 後ろめたさがあるなら、その内容は聞いてはいけないような気がする。だから予防線を張った。わたしはもう、あんな思いはしたくない。その思いでアイフォンを掴み取り、彼の眼前へ突き返す。

 ほんと、ななこちゃんってさァ…下心、ないよね。そう言い放たれたなら思わず涙が滲んだ、あんな惨めな思いはしたくない。

 小さな箱を受け取った坂田くんは前を向いた。そうしたまま動くことはない。諦めてくれたんだろうか。聞かなければそれはそれで気になるが、放っておけばこんな出来事なんてすぐに忘れることができる。そうして、元通り。
 だからもう、わたしの心をかき乱さないでほしい。あの人のおかげでなんとかバランスを保った傷だらけのそれを…、



 余計なことを考えたせいで思い出してしまう。するはずのないあの苦味が、口の中に広がった気がした。

 
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