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 色気もへったくれもない声を上げたわたしは、シンクと背後に立ちはだかる人に挟まれて動きを取れないでいた。
 突然うなじの髪が掻き上げられる。そのまま首に顔を近づけてスン、と匂いを嗅がれた。その行動の意味がわからず、体を強張らせることしかできない。

「…お前、臭くねえよなァ」
「えっ何!? わたし臭いんですか!?」
「人の話聞けよ」
「こんな状態で聞けませんって! ちょ、ちょっと待って…もう終わるから…」

 調理台に腰を預けてじいっと見られるものだから、皿をゆすぐ手が震えた。ーーー前言撤回! 周りの男の人と全っ然違う!
 あたふたしながら皿洗いを終えて、手の水分を拭き取りながらそちらへ向き直る。あろうことか正面から顔が近づいてきて、また首元に顔が埋まる。せっかくお風呂に入ったのに、変な汗をかいてしまいそうだ。
 いつもみたいに唇が寄せられることはない。すう、とひと呼吸して顔を上げた彼は、とても不思議そうな顔で問う。それは毒気の見えない、稀な表情だった。

「女は大抵、女臭ェだろう」
「なんですかそれ…」
「化粧品だか香水だか…シャンプーひとつにしてもにおいがキツイ」
「はあ…」
「部屋も芳香剤か知んねェが甘ったるいにおい、するだろうが」

 と、言われてもこちらはただ返答に困るばかりだ。故郷の田舎の家なんて線香のそれが漂うのがほとんどだし、都会に来てから女の子の部屋に行ったことなんてない。知らないのに答えられない。唯一わかるのは、この家から彼の言う女臭さは絶対しないであろうことだ。
 洒落た芳香剤なんか置いたことない。消臭は専ら、香りのついていない消臭剤を愛用中だ。シャンプーもリンスも匂いのきついものは選んでないし、衣類の洗濯関係も化粧品もなるべく無香料を使用している。香水なんてハードル高くて手を伸ばそうと考えたこともない。
 要はただ自分が、意図せずブレンドされたにおいが苦手でそうならないようにしているだけ。だけど目の前で首を傾げる人には不思議に思えて仕方ないようだ。

「苦手なんですよ…においって難しいじゃないですか。そりゃいい香りとかまとわせたいですけど、正直身の丈が合わないというか追いついてないっていうか」

 説明したらなんだか自分の心がえぐられた。センスのなさをただ露呈させただけのような気がする。ははは、と笑って誤魔化したら、彼もいつものニヒルな笑みを浮かべた。

「そうか」
「そうです。…だから離れてください」

 両手を胸の前に掲げて、そろりと後ずさる。いささか距離が近いのは慣れないからだ。なのに表情を変えないまま、じりじりとにじり寄ってくる。その状態のまま狭い部屋の中を逃げ回っていると、ククッと喉の奥を鳴らしたのが聞こえた。

「布団敷けよ」
「…ええー…?」

 このタイミングでこうくるの? 後ずさるのをやめて、部屋の端に折り畳まれたせんべい布団に目をやった。なんとも気乗りしないでいるが、向けられる瞳はいつもどおり有無を言わさないでいる。
 諦めて言われたとおりにした。少々驚いたのは先に寝転んだのは彼の方だったということだ。いつも無理やり押し倒されていたのに今日は違う。パターンが変わると戸惑った。

 足を投げ出して、露出している片目を手の甲で覆っている。そんな姿を見下ろしていたら、骨張った手の陰からちらりと見られた。

「…電気消せ」

 なにそれ。そういうのも初めてなんですけど。彼の要望が一体なにを叶えるために出されているのかちっともわからない。でも従うほかない。
 明かりが消えると、全貌を捉えられなくなる。しばらくすると目が慣れてくるが、不明瞭なことに変わりはない。どうしたものかと悩んでいると、下方から声が飛んでくる。

「何を突っ立ってんだよ」
「…どうしたらいいんですか」
「寝りゃあいい」
「どこに? …まさかそこに?」
「床がいいなら止めねえが」

 恐らく、彼は間接的に隣に寝転べと言っている。今度は素直に従えないでいた。そのまましばらく立ち尽くしていたが、どうしようもなくなって床に膝をついた。
 シチュエーションは違うが、きっといつもと同じことを繰り返すだけだ。何度も肌を合わせた。その度に諦めて、結局は慰められていたじゃないか。

 手探りで布団を探す。布地を見つけたのでその端へお尻を下ろした。ごろりと寝転がると、指先に確かな温もりが触れた。慌てて手を引っ込める。隣で、衣服がシーツと擦れる音がした。その後、しん、と静まる室内。耳を澄ますと相手の吐息が聞こえる。自分の心臓がドキドキ鳴っていることに気がついて、意味もなく呼吸を止める。
 頬に、ひやりとしたものが触れた。恐らく彼の手だが、それが冷たいのに思い当たる節はある。

 自分の顔が熱いのだ。





「寝ろよ。変な期待してねェで」

 ククッ。短く喉を鳴らしている。温かみはそのまま引っ込んでいった。自分は何も言えないまま、ただ暗闇の中を見ていた。





「ーーーそれ、煙草のにおいしねえ?」

 ハッと我に返る。ざわざわと騒がしい食堂の中、低い声が確かにわたしの鼓膜を揺らした。自分は珍しく自販機でジュースを買って、それを飲んでいたところだった。声の主は坂田くんで、わたしのすぐ側に立っている。不意に投げかけられた、疑問系の言葉の真意がよくわからず首を傾げることしかできない。

「そのシャツ。ななこちゃん吸うっけ」
「ううん、吸わないけど…そう?」

 どきりとした。煙草を吸わないと否定してから、じゃあどうしてそんなにおいが自分からするのかという、もっともらしい理由がパッと浮かばなかったからだ。
 きっと3秒は無言だったと思う。それでも返事をせねばと坂田くんを見上げて、へらりと笑って見せた。

「…そういえば、この前ご飯食べに行ったとき隣の人が吸ってたんだよね。そのときに付いたのかなあ」
「洗ってねーのかよ」
「そこには触れないで」

 その笑顔を崩さないまま会話できて、我ながらうまくかわせたと思う。ちょうどその時、トイレに行っていた友美が戻ってきて、午後からの講義のため教室を移動した。

 スン、と鼻を鳴らす。確かにそんな匂いがするけど、余裕がなければこんなことにも気が付かないのか。…あの人、煙草吸うのかな。わたしの家では吸わないんだけどなあ。
 とそこまで考えて、自分とは違う匂いのするものを着ているんだと実感して気恥ずかしくなった。暗闇の中で脱いだのかもしれないが、あんな紛らわしいところに放っておかないでほしいなと心の中で悪態をつく。





「…家着にしてたんじゃねーの?」

 疑問は宙に浮かんで消える。

 
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