「好きだ」
滅多に耳にしない愛の言葉に夢子は明らかに動揺した。この男が嘘や冗談を言うような人物でないことは、先の異国の旅に同行したことでよく知っている。
好きだ。たったの三文字だが今の夢子を躊躇させるには十分過ぎる言葉だった。立ち尽くす夢子の視界を承太郎の影が覆い、ぐっと距離が縮まる。一体彼はどんな表情でいるのだろうか。それを確かめる術も、今はもうない。
「好きだ、夢子」
静かに、けれども熱を孕んだ低音を耳元で注がれて夢子はどうにかなりそうだった。壁と承太郎に挟まれたそこで、瞬く間に耳が、頬が、体が、発熱したように上昇していく。動じてはいけないと顔を伏せれば、それを制するように脚の間を割り入る承太郎の体躯。咄嗟に夢子の肩がびくりと跳ね上がり、結んでいた唇から弱々しい声が零れ落ちた。
「っ、あ」
両腕はとうに壁に縫い付けられており、もはや夢子の力ではどうすることも出来ない状況下で彼女の意志だけが承太郎を拒んでいる。夢子の名を呼ぶかわりに、耳元にちいさな口付けが落とされた。この力任せの行動とはうらはらに慈しむようにそっと触れた、やさしい口付け。
ずるい、と思った。このまま拘束を解いて承太郎の首に縋ることができたのならどんなに楽だろうか。
「…お願い」
ぽつりと口に出したあと、心の中でまるで呪文のように自身に言い聞かせた。単語をゆっくりと噛み下しながら何度も反芻させる。これ以上彼の言葉を受け入れてしまえば、きっと後には戻れないのだろう。決して頭の切れる部類ではないが、これだけは直感的に理解していた。
「それ以上は、」
言わないで。
震えだした瞼を固く閉ざし、絞り出した言葉はやはり頼りない。そんな小さな声を拾った承太郎は夢子の精一杯の主張など気にも留めていないようで、密やかに口角を吊り上げる。彼にとって、そんな言い訳や我儘などはどうでも良いのだ。
「俺は、お前が欲しくてたまらない」
逃げ場をなくし抵抗の余地も奪われた憐れな少女へ、最後の追撃にも似た言葉が甘く紡がれた。
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(140601)