ささやかなるひと欠片を
審神者としての役割と共に割り当てられた社の扉を潜る。
踏みしめた床板は冷えてはいるものの、他人の気配を感じられる空間には独特の温かみがあった。
「おかえり」
囁くような小さな声は少し照れている様でもあり、思わず顔を上げればそこには何の姿もない。
代わりに少しだけ視線を下げれば、こちらを見上げる小夜左文字の視線とかちあった。
その言葉を言うのはいつだって私の方だと思っていたので、言われる側というのは少しくすぐったい。
「ただいま、小夜。……鳴狐は?」
「ちゃんと庭に居る。キツネもきちんとこの社を護っていた」
「そう。ありがとう」
ぶっきらぼうに言ったかと思えば、視線を庭へと滑らせる。
その先にはお供のキツネに狩りを教えている鳴狐の姿があり、刀剣が獣に狩りを教えているなんて不思議な光景だなと思ってしまった。
…と、なると最後は。
ぎし、と床板が鳴ったかと思えば頭上から影が落ちてくる。
見上げるまでもない。
この社に住んでいる刀剣男士で、こんな風に私の背後に立つのは一人だけなのだから。
「……おい。オレのことは無視か。何で鳴狐のことだけなんだよ。つか、まずオレにチビどものことを聞きゃいいだろ」
「兼定さんは大人だから聞かなくて大丈夫だと思いました。それに小夜が最初に出迎えてくれたから流れで聞いただけです」
「だったらいいけどよ……。何か釈然としねぇなあ……」
小夜の倍ほどもありそうな体をしておきながら子どもの様に唇を尖らせた兼定さんは、今日はご機嫌斜めらしい。
と、いうよりこの人は政府そのものが嫌いなのだろう。
私が政府に呼び出され本部へ向かう度に兼定さんの機嫌はぐにゃりと曲がった。
彼がまだ刀剣として存在していた当時の幕府のことが蘇るからなのか、それとも今なお刀剣男士として使われることに不満があるからか、私には想像することしか出来ない。
その割には政府から呼び出しがあれば「オレも連れてけ」と彼は煩く言ったが、あんな冷え切った場所に連れて行く気は皆無だった。
「そうだ、今日はお土産があるんだよ」
「土産……?」
「はい、小夜」
お土産と聞いて兼定さんの耳がぴくりと動いたが、残念ながら今日のお土産は彼にではない。
むしろ貰ったところで困るか、馬鹿にしてくるかのどちらかだろう。
それに、見た目だけはとても美しい彼にこんなちっぽけな物は似合わない。
彼にはきっともっと相応しいものがある筈だ。
「これは……綿?何?……僕にくれるの?」
「綿じゃなくて、たんぽぽの綿毛。公園に一杯咲いてたから摘んできちゃった。小夜にあげようと思って。……鳴狐もいる?」
「主殿!鳴狐と、このキツネにも頂きたく存じます!!」
「………………ありがとう」
声を聞き付けたキツネが駆け寄ってきて、私の足に頭を擦り付けた。
その後ろをゆったりと追ってきた鳴狐はキツネを抱き上げて肩に乗せると、私の手からたんぽぽの綿毛の束を受け取る。
綿毛を前に困った様子の小夜と、口許に持ってきてもらってご満悦のキツネが可愛くてつい笑ってしまうと、不意に頭に重みがかかった。
「……で、オレには無ぇのか、我が主?」
「……欲しかったんですか?」
頭に乗せられた兼定さんの腕を退けようとするものの、不機嫌顔の彼は離れてくれない。
強調するように"主"だの"審神者"などと言う時は嫌味であることが多いのだけど、まさに今もその様だった。
……贔屓だとでも思ってるんだろうか。
むっすりと引き結ばれている口元を見上げれば、まるで非難するかのような瞳が降って来た。
そんな私たちのことなどいざ知らず、ふう、とキツネが息を吹き掛ければ、そよそよと綿毛が揺れる。
そして鳴狐が同じように息を吹き掛ければ、手元の綿毛が一斉に白を空へと舞い上がらせた。
「なるほど」
小夜もそれを見て合点がいったのか、口をすぼめて息を吹き掛ける。
しかし真上から吹いたせいか綿毛はあまり飛ばず、小さな手でたんぽぽを握り締めたまま首を傾げるものだから私たちはついつい吹き出してしまった。
「ふふっ」「ふはっ!」
重なった二人分の笑い声に、小夜の青い瞳がこちらを向く。
するりと頭上の重みが消えたかと思うと、悠然と兼定さんは小夜の前に屈み込み綿毛の束を取り上げた。
小夜の手の中にあった時は相応に見えたそれも、彼の手の中に握られれば途端に小さく見える。
それは隣に立つにはあまりにもちっぽけな私自身にも重なって微かに胸が痛んだけれど、兼定さんは子どもの様に笑いながら勢い良く息を吸い込んだ。
「小夜。こういうのはな、思いっきりやるんだ、よっ!!」
「!!」
音が聞こえる程の勢いで吐き出された酸素は、白い綿毛を空へと飛ばしていく。
一斉に飛び散ったそれを見上げる小夜の瞳は真ん丸に見開かれていたけれど、私だって似た様な顔をしているんだろう。
ただ一人涼しげな顔で眺めていた鳴狐は自分の手の中に残っていた綿毛を吹き、今度は完全に空へと返してしまった。
「散っちまえばただの茎しか残らねぇけど、だからこそこの潔さが良いよな」
「兼定殿!わたくしめも兼定殿の様に飛ばしてみたいのであります!!どうすれば良いのですか!!」
「あー…、お前にゃ難しいかもなぁ……」
命の種子を世界へと届けるその様は、壊すことでしか護ることの出来ない私たちとは違っていたけれど、兼定さんの笑顔は何処までも明るい。
あるいは戦いのことや私たち審神者と刀剣男士の背負った宿命のことなど、考えても仕方ないことと割り切っているのかもしれなかった。
けれど、だからこそその光に私が救われていることをきっと彼は知らない。
勿論それで良かったし、審神者である以上むしろ私にこそ彼らを救う義務があった。
その義務を全う出来ているのかは分からなかったけれど、彼らの傍に居るととても心地良いというこの感情を誤魔化せはしない。
「……兼定さん」
「ん?……な、何だよ。小夜の綿毛取ったから怒ってんのか?言っとくけどな、オレはこいつに手本を見せてやろうと思って―――」
「いえ。……ありがとうございます」
「……お、おう?」
風に揺れたひと房の黒髪を摘みそう言えば、礼を言われるとは思っていなかったらしく困惑したように頷かれた。
審神者としての自分に自信が持てない私も、未だ復讐の炎に取りつかれた小夜も、人と接することに線を引く鳴狐もきっとみんな、この人のことが好きだから。
恐らく誰一人として口にすることはないだろう代わりに、礼として言葉を捧げておく。
すると鳴狐も意図を察したのか微かに笑い、キツネがぴょこんと兼定さんへと前脚を突き出した。
「鳴狐も兼定殿を尊敬している様です!兼定殿は余計な一言も多いお方ではありますが、まるで子ども様な明るさと分かり易さには鳴狐だけでなく主殿も一目置いていることでしょう!」
「……うるせぇぞキツネ。馬鹿にしてんのか」
「キツネの言う事にも一理ありますけどね」
「アンタはまたそうやってこいつらの肩を………おい」
「はい?」
「ちょっとじっとしてろ」
キツネの言葉に小夜も頷き、気を良くしたキツネが鳴狐の肩から小夜の肩へと移り歩くのを背景に兼定さんは手を伸ばした。
頬を掠めた指先はこめかみの辺りに柔らかく触れ、かと思えば無骨な指先が小さな綿毛のひと欠片を摘み上げる。
先程吹いた時にでも私に付いたのだろうか。
小夜よりも鳴狐よりも大きな兼定さんの指の中にあると、それはより一層小さく見えた。
「綿毛」
指先に向かって息を吹き掛ければ、最後の綿毛も空へと飛んで行く。
そよそよと揺れる白は青に溶けていき、何故か得意げに笑った兼定さんの笑顔は妙に癪に障った。
「うるさいですよ、兼定さん。つけたのは誰なんですか」
「オレかもな。……怒んなよ。審神者だろ?」
「審神者は関係ありません」
いつの間にか私と兼定さんの表情は逆転していて、どうしてこうも振り回されるのかと思うと呆れたくなる。
それでもたんぽぽ一つで彼の笑顔が見られるのならば、今度はもっとちゃんとしたお土産を持って帰ろうと思ってしまった。
何よりも癪に障るのはそんな自分自身の感情だけど、不機嫌になったと勘違いした私の頭を無遠慮に撫で回してくる彼の手は嫌いじゃない。
ぐしゃぐしゃになった髪に対して文句を付ければ「なら結ってやるよ」とドヤ顔で返されたことにもまた腹が立ったので、とりあえずブーツの中に隠れた長い足を思い切り踏み付けた。