春を告げる鳥
私は西暦2205年生まれだ。この年、政府は重大な発表をした。
正式名称は忘れてしまったが、今ではそれを略して「とうらぶ」と呼ぶ。その頃の芸人が考えたという巫山戯た呼び名だけれど、その覚えやすさから広く浸透した。
その「とうらぶ」の主な内容については、有名な一節を引くことを説明に代えたい。
歴史の改変を目論む「歴史修正主義者」によって過去への攻撃が始まった。
時の政府は、それを阻止するため「審神者」なる者を各時代へと送り出す。
審神者なる者とは、眠っている物の想い、心を目覚めさせ、自ら戦う力を与え、振るわせる、技を持つ者。
その技によって生み出された付喪神「刀剣男士」と共に歴史を守るため、審神者なる者は過去に飛ぶ――。
ちょっと詩的に綴られたこの文章は、ある作家が非公式に書いたものだけれど、そのわかりやすさのために今でも重宝されている。私くらいの世代だと、空でこれを言えるのは珍しくない。中間試験の問題に巫山戯て先生が出したりさえしたくらいだ。「とうらぶ」についてよくまとめた文章だと思う。
これを御伽噺のようだと、当時の人々は笑ったらしい。バカみたいだ。今ではそれが当然なのに。
審神者。歴史修正主義者。刀剣男士。それらは今や教科書に載っている常識だ。正史を守るための正義の戦いは、あれから20年あまりたった現在まで続いている。でも、一般人には関係のないことだ。審神者としての力を持っている人なんて人口の0.01%にも満たないし、刀剣なんてものと関わる機会なんてのもない。結局それは遠い遠い世界の話だった。
実質のところ、1945年から他国との戦争も起こっておらず、まるで江戸時代のような太平の世がこの300年ほど続いている。そのおかげが、文明における大変化も特には起こっていない。だから私は普通に毎日を過ごすことができて、普通に就職だってできた。安定を求めて公務員を希望し、見事合格。これから人並みの幸せを掴み、人並みの楽しい人生を送っていくつもりだった。
予定が狂いだしているのを知ったのは、配属場所を聞かされた時のことだった。歴史保全庁山城復興局支援班。
そこは、俗に「時の政府」と呼ばれる有名な左遷先だった。
なんて運が悪いんだろう。
確かに、新卒の一定数がそこに送られるとは知っていた。でも確率は相当低かったはずだ。なのに、どうして。真っ当に生きてきたはずなのに、こんなハズレくじを引かされるなんて思ってもいなかった。
でも今更、後戻りもできない。
だから、一二年の辛抱だと思うことにした。次のいい配属先に行くための試練なんだ。そう言い聞かせ、私は泣く泣く歴史保全庁山城復興局支援班に務めることとなった。
「人の子よ、命が惜しければ退け」
だからといって、私はどうしてここまで言われなきゃならないんだろう。
ある本丸のある刀剣男士からそんな言葉を吐かれたのは、うららかな春の日だった。直属の上司が風邪を引かなければ、こんな事態にはならなかったはずだ。インフルエンザにかかったのだそう。新しい液状の薬を飲んでいるらしい。昔は粉だったのになっていう電話越しの呟きが鬱陶しかった。いつも文句が多いけれど、それぞれの本丸の特徴とか対応の仕方とか、マニュアルに載っていないようなことを教えてくれるいい上司だ。部署としては、相変わらず最悪だけど。私が何もできなくても大体のことはやってくれるから、思いの外楽だなって油断してて、一人ぼっちで仕事をすることになるなんて思ってもみなかった。私はしぶしぶ旧式のタブレットを抱え、ある本丸に足を運ぶことになる。ちなみに、タブレットは旧式とはいえど、時間遡行用のシステムも必要書類も全部追加されている。旧式なりの遅さや面倒くささは顕在だけれども。
梅の綺麗な場所だった。全部が満開に咲き乱れていて気味が悪いくらい。綺麗すぎるって恐ろしいとこの時初めて知った。
こんな空間にいて、審神者は頭がおかしくならないのだろうか? いやそもそも審神者はまともな人間じゃないのだから当然か。
風で時折舞い落ちてくる花びらを払いのけながら玄関に向かう。敷地の広さは審神者の実績によって多少変わるが、建物の造りは大体変わらない。一般的な武家屋敷でも想像してもらえれば相異はない。横に広い式台から上がるタイプだと言えばわかりやすいだろうか。正確には色々名称があるのだろうが、旧時代の建物に残念ながら興味はない。
だからもしここで、キョケキョという鋭い鳴き声が聞こえてこなければ茶室のほうへ繋がる飛び石を踏むことはなかっただろう。今時珍しい鳥の声に、半ば無意識に足を伸ばしてしまったのだ。そんなことしなければ、彼に会うこともなかったのに。
そう、実際庭先にいたのは鳥ではなく、一人の男だった。
深い緑と黒を基調にした洋服に身を包み、桃色に咲く梅の花を見上げている。
男が振り返ることで、鞘を吊している鎖が小さく音を立てた。
「……誰だ?」
何気ない口調だったけれど、隙がない。
「政府の者です。こちらの本丸の審神者と面会したいのですが」
ぎゅっとタブレットを握り締めてはきはきと言う。
上司の教えてくれた心得の一つ。本丸では気を緩めるな、気を許すな。自らが上の立場だという態度をとれ。舐められてしまってはいけないのだ。
相手は異形の連中。妙に懐に潜り込まれたらたまらない。
「それは無理だな。こんのすけを通しての連絡で十分事足りているはずだ。お引き取り願おう」
「これは必要な調査です。応じて頂けないというなら、上に報告させてもらいますよ」
子どもみたいな言い方しかできないのが嫌だったけれど仕方がない。告げ口ってほどではないけれど、ちゃんとやってくれないところには罰則を与えるのも仕事だと上司は言っていた。
しかし、柄に手を置かれた瞬間は身が強張った。そんな私を嘲笑うように、すらりと抜き身の刀が晒される。切っ先は、まっすぐ私のほうへ向けられていた。距離はあったけれど、思わず唾を呑み込んだ。なんで。
「構わないさ。審神者をこれ以上傷つけられるより遙かにいい」
「わ、私は傷つけようとしているわけではありません。ただ、確認事項がいくつかありましてですね」
もしかしたらこの男は新人なのかもしれない。事情を知らない新人が余所者をはねのけようとしているだけなんだ。この前も別の本丸で長谷部とか名乗った刀がぎゃんぎゃんと喚いて五月蠅かった。この男もきっと、同じだ。体格だけは大人のようなのに、所詮刀剣ってことだ。――刀でしか、語るすべがない。
「すみませんが、大事な用件なので上がらせてもらいます」
私はきっぱりと告げて、踵を返した。刀に真っ正面から向かっていく気にはなれなかったし、縁側から侵入するのも行儀が悪いから、走って玄関に回り込む。逃げていると言われればその通りなんだけれども、許してほしい。だって、あんな旧時代の武器を振りかざされたら、未知すぎて怖い。古いにしても、せめて銃くらいにしてくれればいいのに。それなら、対処法だって少しは知っているから。
玄関に戻って、声を掛けるのもそこそこに式台へと上がった。背後に気配は感じられなかったけれど、後ろからあの男に刺されたり斬られたりしたらたまったもんじゃない。そうやって慌てたのがいけなかった。物陰から小さな子どもが飛び出してきたのだ。避ける暇もなくって、子ども諸共後方に転がる。背中を石畳に強かと打ちつけて痛い。運悪く、子どもの下敷きになってしまった。起き上がろうとしたけれど、子どもはしっかり私の上にまたがっている。文句の一つでも言ってやろうとした時、ひんやりとした物が喉にそえられいるのに気がついた。
「動かないでください」
動こうも何も、喉に当てられた刃が怖くて喋ることすらできなかった。呼吸をするタイミングさえ失った。鉄の冷気が肌を貫き通している。
「これでも、警護は得意なんです」
微笑んだ子どもは、整えられた茶色の短髪をさらりと揺らした。澄んだ丸い瞳から目を逸らすことができない。その行為一つでも反逆行為ととられてしまいそうだ。昨日の昼ドラで包丁を向けられた人の気持ちが、痛い程わかった。抵抗なんてできやしない。悲鳴を上げることすら、満足にできない。
代わりに体内では音がいつも以上に響き渡っていた。自分の心臓が血液を送る音。眼前の子どもの微かな衣擦れの音。誰かが歩いてくる足音。
「平野、お見事だな」
先程の男の声だ。
「いえ、これが僕の仕事ですから」
政府の者を捕らえるのがこんな子どもの仕事だというのか。ここの審神者というのは余程タチが悪いらしい。こっちが何をしたというのだ。普通に仕事をしているだけで、生命の危機にさらされなければならないなんて。
「さて、挨拶もせず入ってこようとしたこのご婦人ですが、どうしましょう?」
「一応政府の者だ。適当に離してやればいいさ」
「部外者、ではないのですか」
平野と呼ばれていた子どもは驚いたように私を見ると、刃を喉元から離す。
「申し訳ありません。ですが次からはきちんと声をかけてから入ってくださらないと」
ゆっくりと退く平野は丁寧な言葉を使っていたが、刃を鞘に納めようとはしない。近くにいる男も切っ先を下げてはいるが、しっかりと柄を握っている。
不用意な行動をしたら斬り捨てるつもりだという意志が、はっきりと伝わってくる。起き上がることができなかった。
「何にせよ、今日はお引き取り願おうか」
有無を言わせぬ声だった。男が一歩一歩私に近づいてくる度、腰の鎖が小さく音を立てる。口の中がからからに乾ききっていた。男が真上から私を見下ろす。隠れた右目と逆光のせいで表情が読めない。首にとんと、そえられた刀だけが彼の意志を示している。
「人の子よ、命が惜しければ退け」
男は空いている左手で私の腕を引っ張って、無理矢理長屋門の外へ追い出した。抵抗する気なんて、微塵も起きなかった。門から出されたおかげで、抱えていたタブレットが自動的に時間遡行を開始する。しょう真っ白な光が私を包み、エレベーターを移動するかのように、現代へと戻っていく。
私は現代に辿り着くまでの間、ぼろぼろと泣き続けた。
何が辛いって、こんなことを言われなきゃいけないほど馬鹿にされる自分だ。人の子であることの何がいけないの。命の惜しいことの何がいけないの。私は普通に手堅く生きてきた。いっそ、優秀だった。なのに、なんでただ生きていたことを無駄だったみたいにされなくちゃいけないのかさっぱりわからない。人であることがまるで、異常みたいな態度をとられる場所がこの世にあっていいのだろうか。特別待遇を受けているからって調子に乗って、人じゃないからってまるで高等な存在みたいに振る舞って。主って何。ただのおかしな力を持ってる審神者を主なんて呼ぶやつらの気が知れない。
人が人であって何がいけない。
生きていたいと思ってしまうののどこが悪い。
刀なんて大嫌いだ。
ようやく涙が収まった頃、私は職場に設けられた時間遡行用の部屋に帰ってきていた。幸いにも誰もいなかったので、丁寧に涙を拭いて化粧を直し終えてからデスクに戻った。すると、事務作業をしていた先輩方から、呆れたような視線を向けられた。この時間に首元に傷を負って帰ってくる意味を先輩方はよくよくわかっているからだろう。
だとしたって、どうすればいいのだ。あんなところ二度と行きたくない。部長に異動させてくれと頼んだが、人手不足のため却下とにべもなく言われた。どうせ部長も左遷された組なのだろう。だから仕方ないと妥協できるんだ。そうでなければこんなの給与とつりあっていない仕事、抗議したくなるのが当然だ。
最低でも、直属の上司が復帰するまで二度と外周りなんかしてやるものか。
私の決意は固かった。
だが、雇われ人というのは最悪だ。どれだけ危険だからトラブルを起こしてしまったからと訴えても、先日の不手際を詫びてこいだとか、きちんと連絡事項を告げてこいだとか言われてしまう。社会人として仕事はきちんとやれと命令される。勿論、私だってこんな逃げるようなことをしたいわけじゃない。けれど命を危険に晒してまでやる仕事ではないだろう。
代わりにこんのすけを使えばいいじゃないかと進言したが、どうやらこんのすけは全体共通の指示くらいしか出せないらしい。部長曰く管轄の部署が違うということだった。八島のシステムはどうしてこうも効率が悪いのだ。
結局、どんな抵抗も意味をなさず、私は翌日に再びそこへ赴くこととなった。
せめて銃の貸し出し許可でももらえませんかと冗談で言ってみたが、当然ながら通ることはなかった。時間遡行には必要最低限のものしか持ち込みは不可。というお役所らしい文言で切り返されて終了だ。
身を守る術を持たず、彼らに会わなければならない。憂鬱だなんて言葉で誤魔化せるほどの気持ちではなかった。足は震えるし、手櫛をする度に髪は抜けるし、もう散々だ。
それでも私は翌日、たった一人で時間遡行を開始した。
長屋門を潜る時から、既に気分は暗い。つい昨日自分が倒れた場所が視界に入って、あの時の恐怖と痛みを否応なく思い出してしまう。まだ料理に包丁を利用していた時代ならまだしも、今時刃物の鋭利さを感じてしまうなんてバカみたいだ。……笑えない。また今日、そんなものを味わいたくはない。仕事なんてこの際、いい。生きて帰ってくることのほうが大事だ。上司のインフルエンザが治るまで、引き延ばせばいい。私の仕事は、それだけだ。
深呼吸をして呼吸を整える。私は書類の束をぐっと握り締めて、敷地の中へ足を踏み入れた。瞬間、きつい目線を感じた。言うなれば殺気そのもののような目線だ。私は一歩踏み出した姿勢のまま、硬直した。目だけを動かして慎重に辺りの様子を伺う。近くにある梅の木の陰から一人の子どもがこちらを睨んでいた。三白眼の瞳も印象的だったけれど、青々とした髪と背負われた大きな編み笠のほうが余程特徴的だろう。――いや、それよりも小さな手に握られた刃のほうが問題だった。急速な勢いで喉へ圧迫感が這い上ってきた。唾を飲み込むことで何とかそれを押し戻して、私は必死で息をする。大丈夫、距離がある。いざとなったら、ポケットに忍び込ませてる小型端末のスイッチを押すだけでいい。瞬時にバリアが発生して、身を守ってくれる。大丈夫。
私はその子どもから目を離さずに、ゆっくりと近付いていった。子どもは私が歩き出すと、刃を構え直して戦闘態勢に入る。あまり近付くのはよくなさそうだ。
「わ、わ……私は、政府の者です。昨日の非礼を詫びるために、また審神者に面会するために、やってきました。だから、ですから、通して下さい」
「……あなたは復讐を望む?」
「え?」
復讐、という言葉が聞こえた気がした。私が復讐をする? 一体誰に。こんな場所に配属した上の人間? それとも昨日刃を向けてきた二人? 確かに最悪なことをされたけれど、復讐なんて大層な言葉を使うほどの出来事じゃあない。
「誰かを殺したいと、願うの?」
「願うわけ、ない」
「……そう」
落胆した顔で、子どもは構えを解いた。今の問答のどこに何を見出したのかさっぱりだったけれど、襲う気がなくなったのならちょうどいい。私は離れたところから声を張った。
「じゃあ悪いけど、審神者を呼んできてくれない?」
子どもは困った様子で、辺りを見回した。
「ここにいないと、いけないから……」
刀というのはなぜこうも融通が利かないのだろう。舌打ちがしたくなったけど、仕事だから我慢しなければ。ぐっと堪える。
「小夜、その必要はない」
だが私が何かを発するより前に、式台のほうから聞き覚えのある声が聞こえてきて、体が凍り付いた。
「どうしてまた来た? 来る意味も必要性もなかったはずだろう」
目の端で、あの男がゆっくりとこちらに歩みを進める様子が見えた。自分の運の悪さを呪いたかった。
男はこの本丸で見張り役でも務めているのだろうか。どうしてこうも遭遇しなければいけないのだ。視界がどうしようもなく歪んでいく。
逃げたいのに、足が地面に張りついてしまって、動くことができなかった。
「早く、立ち去れ。殺したくはない」
そう言いながら、刀の柄に手を掛けている男が大嫌いだ。何をしたって私のことを、排除する気なんだ。
背後を、ちらりと振り返った。長屋門の外が見える。あそこに出て、書類の手順通りに儀式代わりの印を結べば、簡単に現代へ帰れる。けどそうしたって、またここへ送り出されるだけ。繰り返すだけ。この不毛な時間移動を繰り返していくだけ。……そんなのは、嫌だ。私はこんなところで、立ち止まっていたくなんかない。こんなところで、燻っていたくなんかない。
唇を引き結んで、地を蹴った。小夜と呼ばれていた子どもの脇をすり抜けて、庭に向かう。式台には男がいるからあがれない。なら今度は、縁側から入ればいい。不法侵入であろうが、構うものか。私は役目を果たして帰る。刀なんてものと向き合って堪るものか。人の形を真似る異形と話すより、特異な力を持った人間のほうが何倍もマシだ。
梅の木の下を走って、踏み石に靴を脱ぎ捨てて、縁側に上がって、そのまま勢いよく障子を開け放った。
畳廊下には、なぜか誰もいない。大抵の本丸はここに刀を控えさせているんだけれど、細長い畳は横に長く続いているだけで、全く人気がなかった。でも、今は好都合だ。審神者に直接面会できる。
私は、続けて襖を開けた。
そして、止まった。
八畳一間には、明かり一つついていなかった。私の背後から日の光がぼんやりと差し込んでいるだけだ。部屋の奧に暗く深い影が落ちている。
そんな部屋の真ん中で、女が寝ていた。
布団の中で、平然と寝息を立てている。整った顔立ちをした人だった。けれどその肌は、赤黒く変色して腐り始めているようだった。髪の毛もごっそりと抜け落ちていて、露わになった頭部には膿んだような痕、更には骨のような白いものが覗いている。そしてその身体から、誤魔化しようもない異臭が漂っていた。
一言で言ってしまえば、生きている人らしい雰囲気ではなかった。かと言って、死にきっているような静けさも存在してはいなかった。震える指で、資料の束を捲る。私はこの症状の意味を知っていた。
該当のページに辿り着くまでに何度も紙を取り落としそうになったが、その記述は確かに見つけることができた。
・時間遡行症(仮名称)
主な症状は身体の見た目に現れる。始めは、髪が抜けるだけで済むが、次第に皮膚が膿み、赤黒く変色する。筋力が低下し、自力で起き上がることも困難となると、そのまま骨に変わるのを待つだけである。ただしこれはただの感染症ではなく、裏切りを意味する。歴史修正に荷担しすぎると、発症する模様。
前例は十八件。共通点、どれも報告を怠らぬ本丸であった。隠蔽工作として勤勉を装っていたか。また刀剣男士の証言によると、どの審神者の発症前にも管狐・こんのすけの死が確認されている。
最悪のケースとして、近侍にまで上記のような症状が見受けられた場合、審神者諸共すみやかに処刑せよ。
資料の無慈悲な一文が、頭の中で木霊した。すみやかに処刑せよ。理屈は理解できる。審神者の身体と刀剣男士たちは少なからず繋がっている。影響が広がって、貴重な戦力が失われては困るのだ。
審神者と刀剣男士、使い物にならなくなったらどちらも早めに斬り捨ててしまえ。
戦争としては正しい判断なのだろう。それなのに、私が立ち止まってしまったのは、一振りの刀が審神者の手を握っていたからだ。真っ白な布を被った刀だった。両手で審神者の手をぎゅっと握り締めている。そこから何日も動いていなのではと思わせる様子だった。ちらりと見えた頬は、真っ赤にただれている。おそらく、もう助からない。
この本丸に待つのは、死だけだ。
その死を宣告するのは、誰の役目?
……もしかして、私の役目?
私はただ、近況を確認するだけだったのに。
それが、死刑の宣告をすることになってしまうの?
どうして、なぜ。
「命を大事にしろ!」
叫び声が聞こえたと同時に、私の左腕が容赦なく引っ張られ、強引に投げ飛ばされた。もんどりをうって転がった私は、梅の根元でようやく止まる。何が起こったのかわけがわからなかった。掴まれた左腕が、叩きつけられた全身が痛い。上下のわからなくなった視界がゆっくりと定まってきた頃には、切っ先を下ろすあの男の姿が見えてきた。
吐き気がした。やっぱり、やっぱり私の邪魔をするのはお前なんだ! 全部、全部!
涙が溢れてきそうになるのを堪えもせずに、叫び批難してやろうと大口を開いた。けれど、男が肩で息をしながら、大泣きしそうなほど相貌を崩しているのを見て、声が出なくなってしまった。
「やめて……やめてくれ。あの部屋に近寄らないでくれ。頼む」
懇願だった。今までのきつい命令や要求とは異なる、切望だった。
「あの、あの人たちは、あの病は、」
声の震えを抑えられぬまま、私が症状を告げようすると、彼は首を振った。
「知っている。皆、言わずともわかっている。……二人は長くない」
淡く微笑む彼の瞳は、もうほとんど色がないみたいに薄かった。穏やかな風が、短髪を揺らしている。
「さあ、このことは他言無用だ。帰ってくれ。……もしそれができないなら、斬る」
声つきはあまりにも凪いでいて、現実味が感じられなかった。
「私を斬ったって、病は治らない」
「わかっている」
「このままに、しておいてはいけないんです」
「……だとしても、放っておいてはくれないか。あの二人を分かつことはしたくない。これ以上、審神者に苦しみを与えたくはない。もって、審神者も奴もあと数週間程度。その間だけでもいい。口を閉ざしてくれ」
男はそう言って、刀を納めた。そうして、ゆっくりと膝を突いたかと思うと、深々と頭を垂れた。土下座の形だった。
信じられぬ思いで、身を起こした私はそれを見ていた。
「あなた、どうしてここにいるんですか。逃げてしまえばいいでしょう? そうしないと、審神者だけでなく……」
「逃げたいが、逃げられんのが役目というやつでな」
面を上げて言う彼は、その役目を苦と思っていないらしかった。表情はただただ柔らかい。諦めきったような顔。もう、ここは終わりだと、悟りきってしまった顔。人間らしくない、刀らしすぎる欲のない顔。
許せない。
「そんなの、許せない」
口から飛び出した言葉は怒気をはらんでいた。
「諦めるなんて、許せない。運が悪くたって、どんなに嫌なことがあったって、何もしないで終わりを待つなんてこと許せない。足掻かなくてどうするの。それじゃあ終わってしまう。それじゃあ、逃げてるのと何にも変わらない! あなたはただ、諦めのいい振りをして、現実から目を背けているだけじゃない! そんなこと、許さない!」
いつの間にか、私は立ち上がって地を踏みつけていた。梅の木がしっかりと根を張っている地を。この地面がたとえ異空間の偽物で、実際にはありもしないものだとしても、それがここにあるなら、それが地面だと信じて。自分の立てる場所だと信じて。
「現状が嫌なら、向き合って変えるしかない。痛みを抱えたまま待っていたって、好機なんか訪れない。待つのは破滅しかない。内側から腐っていくんだ! そんなのは嫌だ!」
正座をしたまま、男は目を真ん丸にしていた。呆然と私を見上げていた。
「審神者だって、まだ助かるかもしれない。あの審神者が、近侍が、あそこでへばりついたまんまでいいと思ってるの」
「思っているはずが……ないだろう」
瞳が濃く色づいていく。刹那、金色のような光さえ閃いた。
私は、徐に立ち上がる彼のその瞳を真っ向から見据えていた。
「だったら、戦わないと。そうでしょう?」
返答はなかった。ただ、男は薄く微笑んでみせた。
それだけで、きっと充分だった。
風で、梅の木が強く香る。枝先に一羽の鶯がいた。それは、まぎれもなく、春を告げる鳥だった。