指先に愛をこめて
「あれ、今日はまだ鯰尾来てないの? めずらしいね」
玄関先には、あと四半刻ほどで出発する第一部隊の面々が少しずつ揃いはじめているなか、この隊の隊長である鯰尾の姿がまだ見えなかった。
いつもなら、それこそいちばんに支度を整えて、玄関先で他の者たちの準備が整うのを待っているはずなのに、なにかあったのだろうか。
まだ時間があるとはいえ少しだけ心配になったわたしは、ちょっと様子見てくる、と言い残して小走りに鯰尾の部屋を目指した。
ぱたぱたと廊下を駆けて、玄関から少し離れたところにある彼の部屋の前に到着すると、力まかせに勢いよくすぱあんと障子を開く。
すると、部屋にはグレーのシャツに腕を通して、ちょうどこれからシャツの前のボタンを留めようとしていたらしい鯰尾の姿があった。その表情はまさに鳩が豆鉄砲を食ったような、という表現がぴったりだ。
けれど、それはわたしも同じで、数秒の沈黙のあいだに彼の上半身の肌色を脳が認識するやいなや、ぼふんと音が立ちそうなほど顔に熱が集まっていくのがわかった。
「っ、し、ししししつれいしましたあ!」
「は? えっ、ま、まってまって主なんで?! 俺の裸なんて見慣れているでしょう?!」
「わあああばかばか! なんでそういうこと言っちゃうの鯰尾のばか! もうはやく着替えてー! 支度してー!」
赤くなった顔を障子で隠しながら、みんな待ってるからね! と言い捨てて即刻その場から離れようとしたそのとき、ぱしっと右手首を掴まれる。
おそるおそるふり返ると、にっこりととてもいい笑顔を浮かべた鯰尾とばっちり目が合った。
わたし知ってる。こういうときの鯰尾はぜったいに余計なこと考えてる。
じっと見つめられれば吸い込まれそうな紫の瞳が、わたしを捕らえて離さない。
「支度、手伝ってください」
やさしい声色で紡がれたそのことばに、わたしは頷くしかなかった。
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「鯰尾、うーんして」
「はあーい」
少しあごを上げてもらって、最後にシャツの首元の一番上のボタンを留める。
いままであまり意識したことはなかったけれど、シャツのボタンを留めるという作業は、思いのほか相手との距離が近くなるらしい。
それにボタンを留めているあいだもずっと、鯰尾がじぃーっとわたしの手元を見るものだから、もともと器用ではないうえに指先がふるえてしまって余計に時間がかかってしまった。
「……主、もしかしてどきどきしてます?」
「〜っ、だれのせいですか、だれの!」
「へへっ 俺のせい、ですね。……でも、こうしてシャツのボタン留めてもらうのなつかしいなあ。顕現したてのころはボタン苦手で主にも何度もお世話になりました」
「あー、鯰尾よく掛け違ってたよね」
シャツのボタンをちぐはぐに留めて、んん? と首をかしげている鯰尾の姿はいま思い出してもかわいらしくて、ついつい笑みがこぼれてしまう。
なんとか自力で戻そうとするんだけど、ひとつ直すともうひとつの穴が合わなくなって、それを見かねた粟田口の兄弟やわたしが手を貸すのが出陣前の恒例となっていた。
「……ちょっと、笑いすぎですってば」
「ふふっ ごめんごめん」
むっとした表情になる鯰尾を軽くなだめながら、畳の上に置かれている黒いネクタイに手を伸ばして、彼の細い首にそれを掛ける。身長差があまりないためすぐ目の前に整った彼の顔があって、またわたしの心臓がうるさくなった。
「俺、こうして主にネクタイ首に掛けてもらう瞬間がいちばんすきなんですよねえ」
「? どうして?」
「なんか、抱きしめてもらえるみたいで。ほら、ネクタイ掛けるとき、主が首の後ろに腕を回すでしょう?」
「……」
「くっ、くるしい! あるじくるしい!」
「なんか今日の鯰尾いじわるだね?!」
「そういう主こそいつにも増して愛情表現が暴力的ですけどね?」
「だれのせいよ」
むすっとした顔で彼を見上げると、わたしの表情とは対称的にやさしすぎる瞳を向けて、俺のせいです、と笑うものだから、つられてわたしの表情も緩んでしまう。
「主のそのかお、いちばんすきです」
「……、わたしも。鯰尾のそのかお、いちばんすき。……はい、できました!」
きゅっとネクタイを結び終え、軽く結び目を整える。ここのところひとのネクタイを結ぶ機会がなかったから、うまくできるか心配だったけど、うん。われながら上出来だ。
きれいにできた結び目を見ながら満足感に浸っていると、わたしの目の前にすっと伸びてきた指。
そしてその指がそっと前髪に触れたかと思えば、次の瞬間にはおでこにやわらかい感触と、ちゅっというかわいらしいリップ音が部屋に響いていた。
「お手伝い、ありがとうございました」
ジャケットを羽織ってから、去り際にくしゃりとわたしの頭を撫でる。
いってきます、といたずらっ子な笑みを浮かべて彼は部屋を後にした。