今となっては、昔の話
弟思いの、優しい少女だ。
それが、さにわあるじである。
弟のこととなると周りが見えなくなる危なっかしい所があったけど、愛する者の為に一心不乱に頑張る姿が、愛おしかった。
彼女は、主の補佐としてこの本丸にいた。
彼女自身には審神者としての資質が無い。
本来ならば審神者以外の人間が本丸にいてはならないらしい。しかし彼女はここが自分の居場所だとでも言うように、ごく自然に本丸の中で生活し、甲斐甲斐しく弟と、そして彼の臣下たる刀剣男士たちの世話をしていた。
不思議に思ってその理由を尋ねたところ、何でも、長い長い議論の果てに、彼女は補佐役として本丸に同行する権利を勝ち取ったらしい。
何が楽しくて!可愛い可愛い弟を!唯一の家族を!本丸なんて訳のわからない空間に!独り放り込まれなければならないんですか!とは、彼女の弁だ。
彼女と主は、親を亡くしているらしい。
彼女にとっても主にとっても、互いは大切な存在だとのことだ。
だからこそ、離れ離れになりたくなかったらしい。
言葉と知識を武器に己の何倍も歳上の大人と対等に渡り合ったという彼女に、素直に感心したのを覚えている。
多分、この時既に、獅子王のなかには彼女への想いが芽生えていた。
獅子王は、この本丸の黎明期に顕現した。
当時本丸にいた刀剣男士は、初期刀である山姥切と、初鍛刀の今剣、そしてドロップしたという秋田藤四郎と五虎退だけだった。
色々と頼り無い面々ばかりの時期に鍛刀された獅子王は、遡行軍との戦いでも、そして本丸での生活でも、大いに戦力となった。
自分たちが傷付けば、主は悲しむ。だから、打刀や短刀よりも打たれ強い自分が率先して前へ出て刀を振るい、敵を弱らせた。
本丸での生活でも、直ぐにネガティブ思考に陥る山姥切を励ましたり、短刀たちと遊びまわる主の面倒を見たりした。
そして、弟の為にと、家事を一手に引き受けてくるくると動き回るあるじにも、積極的に手を貸した。
時には、育児(と表現するのも些か可笑しいが)について悶々と考え込むあるじから、悩みを聞き出し、一緒になって頭を悩ませた。
山姥切国広が主の近侍だとしたら、己はあるじの近侍だと、獅子王は自負していた。
そして、獅子王がさにわあるじに惹かれていったのは、自然なことである。
優しい少女。
この本丸について来ると決意して、失ったものも多かろうに、それでもそんな様子を見せない健気な少女。
弟の為に生きることに、喜びを見出している少女。
気付けば、獅子王の中では、さにわあるじの存在が随分と大きくなっていた。
第三者から見ても、獅子王とあるじの仲は良好だったと思う。
そして、これは自惚れでも何でもなく、あるじも自分を一番に頼ってくれている。
でも、今は弟のことで彼女の心は一杯だからきっと、自分の告白を受け入れてはくれまい。
だから、待とう。
何年でも、待つつもりだった。
しかし程なくして、彼女は、本丸を襲撃した遡行軍の凶刃から愛する弟を庇い、絶命した。
あと一歩、彼女に届かなかったあの時の絶望は、絶えず獅子王を苛んでいる。
彼女の胸を槍で一突した遡行軍を、獅子王は怒りに任せて斬り伏せると、瀕死の彼女へと近寄った。彼女に抱かれ、主は泣き叫んでいる。
あるじは肺を貫かれ、呼吸もままならずに苦しげで、それでも、弟が無事だと安心して微笑んだ。
「生きて」
弟の涙を拭おうと手を伸ばしながら少女は言う。しかし、もう殆ど手に力が入らないのだろう。その手はほんの少ししか持ち上がらない。だから、獅子王は彼女の手を取り、己の主の眦へと導いてやった。少女の白い手はみるみるうちに冷たくなっていく。
まだ敵を殲滅していないだとか、このまま悲しみに心を支配されるばかりでは主を危険に晒してしまうだとか、そんな事は全く考えられなかった。
主と同じように、獅子王はただただ涙を流していた。
「獅子王」
最期の最期、あるじはひどく柔らかな声音で己の名前を呼んだ。
なんでそんなに優しく名前を呼ぶんだ。
自分はお前を助けられなかったのに。
満足気な笑みを浮かべて、あるじは絶命した。
それからのことは、記憶が定かでは無かった。
獅子王の頭にあったのは、再び彼女に逢いたいという、痛切な願いだけだった。
嘗ての仲間の制止を振り払い、刃で以って止めようとする仲間を斬り伏せる。山姥切に並びこの本丸で最高練度を誇る獅子王に、敵は無かった。だからこそ、彼女を守れなかったことが、辛くて仕方がない。
獅子王は、歴史というには余りにも些細な、しかし彼にとっては重大な過去を改変し、掛け替えのない存在をこの腕に再び抱く為に、身を堕とした。
彼女は歴史修正主義者の所為で命を落とした。だから、正直に言うのならば、いくら彼女の命を助ける為とはいえ、彼らの手を取るのは腸が煮えくりかえる程嫌だった。
でも、それでも、獅子王は差し出された手を握った。
もう一度、さにわあるじの笑顔が見たかったのである。
そして……
何度も何度も同じ時間を繰り返し、幾度となく彼女の命がこの手を擦り抜けていくのを経験し、漸く手に入れたのだ。
この箱庭は、誰にも壊させない。
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彼女の記憶は不安定だ。
常人ならば、“此処”にいて自分と過ごしていれば“書き換わる前の記憶”が蘇る筈はないのに。
審神者としての資質に欠けるとはいえ、あの少年の姉だけあって、霊的資質は少なからずあるのだろう。
口吸いをして、身体を繋げて、己という存在を深く刻み込めば、名実ともに、身も心も彼女は自分だけのものになる。
しかし、焦っては駄目だ。
事を急いては、彼女を壊してしまう。
時間はたっぷりあるのだ。
漸く彼女を手に入れられたのだから、じっくり時間を掛けて自分色に染めていけば良い。
「ねぇ、獅子王?そろそろ離して?早くご飯作って食べなきゃ学校に遅れちゃうよ?」
照れ隠しに、彼女は言葉を捲したてる。
耳が真っ赤だ。愛おしくて仕方がない。
「ん?学校は今日は休みだろ?」
正確には、今日“も”だろうか。
この幽世に、己の神域に、学校なんて存在しない。
「そだっけ?」
「そうだぜ。だから、一緒に、ゆっくり過ごそうなあるじ」
吐息を織り交ぜて彼女の貝殻のような耳に言葉を注ぎ込むと、彼女は声にならない悲鳴を上げた。
その反応に、獅子王は喉の奥で笑う。
嗚呼、愛おしい。
食べてしまいたいくらいだ。
獰猛な心を、辛うじて抑えつけ、華奢な少女を抱く手に力を込める。
絶対に、離さない。