春の塵をまぶした後に
痩せた身体で彼女はそう言って笑った。外は雪が降っていたと思う。おぼろげな記憶を手繰り寄せるように鶴丸はすっと目を細め遠くを見た。夜は慣れない。雲に隠れていた月がゆるゆると鶴丸の寝室を照らしてゆく。寒い。吐く息が白い。だが雪は降っていなかった。目に縁取られた白く、飾りのように長い睫毛が彼の頬に影を落とす。彼にとって初めての夜は女と交わった時だった。人の体温が、恋しい。夜は、彼をひどく不安にさせた。
▽
「鶴丸、一番隊は明日からしばらくお前が隊長だ」
「ほう、そうかい。とうとう俺も大役をもらうようになったわけかい。こりゃあ驚きだな」
わいわいと賑わう広間で、たまたま隣になった物吉と時折会話をしながらいつも通りに朝餉をとっていると、鶴丸の元へ近侍の長谷部が任命書を持ってやってきた。鶴丸が茶化すと、「ああ俺が出れば早いものを。だが、お身体の悪い主を放って出陣などできん」と忌々しそうに呟いた。昔は長谷部も前線に出ていたが、いまではすっかり本丸にこもるようになってしまった。その時期は審神者の持病が重くなった頃と重なっていた。審神者と長谷部はお互いを深く慕いあっていた。口には出さないがみなそのことを知っていた。
「審神者の身体のことはあまり気にすることはねえ、なるようにしかならねえしな。それに俺だって一番隊の隊長としての務めはきちんとやるさ」
皿を重ねあわせて立ち上がった鶴丸はにっと笑って長谷部の肩を去り際に叩いて去っていく。その軽い足取りに、長谷部は苦虫を踏み潰したような顔をして小さく舌打ちをした。鶴丸のことを嫌悪しているわけではなかったが、彼の、飄々と何にも執着していないところが、長谷部は度々憎らしく羨ましかった。俺たちはしょせん”物”さ、と笑い飛ばしてしまいそうなところが。手に入れたこの身体を捨てろと言われれば簡単に自害してしまいそうなところが。そんなことは、人間臭くなってしまった今の長谷部には到底出来そうになかった。
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いつ自分に自我が芽生えたかは定かではない。しかし確かにあったと鶴丸は思う。それは水の中にぷかりと浮いているような感覚で、なにをするわけでもなく、ただただ移り変わる時代を眺めていただけだった。最初のうちはいったい自分がなんであるかもよく分からなかった。彼の瞳はよく朱く染まった。常夜の闇を彷徨っている時もあった。それらになんの感情もわかなかった。織田家にいた時の記憶も、いま思えば「ああそういえば」と思い出すことがあったが、実のいうところ、その当時は何を考えていたのかよく覚えていない。
「”つるまる、くになが”」
ある時、ぴんと張りのある、けれども幼い声が鶴丸の精神をこちら側に勢い良く引き上げた。意識が覚醒したとでもいうのか、目の前には幼い娘がおり(鶴丸はこの時目の前にあるものが一体何であるか分かっていなかった)、大きな瞳でこちらを見上げていた。彼の初めての感情は、間違いなく”驚嘆”であった。
いきなり現れた男に、娘は萎縮するわけでもなく、顔をほころばせて遊ぼうとしきりに誘った。娘は元来から霊力が高く、こういったものがよく見えていた。
次に芽生えたのは、”興味”という感情だった。
鶴丸はその娘にたくさんのことを教わった。彼女の霊力のせいか、鶴丸が人として現れることができるのは月に数回、それも昼間の数刻だけだった。鶴丸はそれでも十分だった。そしていままで自分はとても退屈していたことを知った。四季の移り変わりは鶴丸の目を喜ばせた。そして同時に娘の成長も。娘は、鶴丸にひっそりと淡い恋心を寄せていたが、それが叶わないことを悟っていた。だからこの時間がずっと続けばいいと思っていた。
しかし月のものが始まると、彼女の力は弱まっていってしまった。彼女と鶴丸が会えるのは三月(みつき)に一回、六月(むつき)に一回とどんどんひらいていき、逢瀬の時間も短くなった。その頃から彼女の瞳は曇っていった。
世では長い戦国時代が終わろうとしている頃だった。
久しぶりに娘の前に立った時、あたりは暗く、ここはどこだろうと鶴丸は思った。鶴丸にとって現世とは常に明るいものだった。
「今は、夜半という時刻だから。この時間はお日様もお隠れになってしまいます」
「俺が昔いた所に似ている、それにしても寒いな。季節は冬かい?」
畳に腰を下ろすと、彼女が前に比べて随分痩せていることに気付いた。頬はこけ、目がくぼんでしまっている。身に着けている服も貧相なものになっていた。
「どうしたんだ、なにか悪いことでも」
「父上が」喉の奥からしぼり出すように娘は言い、彼女の目からは涙がほろほろとこぼれた。「父上が、戦に敗けてしまわれた!」もともと白い顔がみるみる青ざめていく。とうとう彼女は顔を覆い、泣き声を漏らした。
涙も、こんなに弱っている彼女も初めて見た鶴丸はどうしていいか分からなかった。気が付くと、彼は自分の胸元にかき抱いていた。そうしなければ彼女がいまにもぼろぼろと崩れて塵になってしまう気がしたのだ。
彼女は肩を震わせてより一層泣いた。鶴丸はそんな彼女を見て、胸が潰されるような気分になり、またあたたかく生臭いなにかが身の内から溢れ出てくるような気分になった。彼女を自分の手でどうにかしたくなり、けれどもなにをしたいかは分からなかった。
「鶴丸、どこにもいかないで。あなただけは私の前からいなくならないで、どうしたらいいの、どうすればあなたは私のそばにずっと居てくれるというの」
「俺はいつだってきみのそばにいたろう、そりゃあ滅多に会えないがそれでも、」
「家はもう持ちません。いずれあなたも手放さなければいけなくなる」
私もどこかに売られてしまうのだわ、と娘は濡れた頬をさらに湿らせた。
「お家のためになるのなら、どこの家にだって嫁ぎに行くつもりでした。けれども、もうそのお家がないのなら、意味のないこと。御牧の名がもうないのなら、私はただの哀れでみすぼらしい女よ。私がなにをしようと咎めるものはいない。だから、鶴丸」
薄っぺらい着物を肩から滑り落とし、娘は半身を露わにした。月とは違う灯りが部屋をほのかに照らす。それは雪灯りだった。
「何を」
鶴丸が問い切る前に、娘は鶴丸の着物にも手をかけた。鶴丸は、彼女がしようとしていることは許されないことだと悟り、彼女の細い腕を掴み制した。
「鶴丸国永さま、あなたを幼き時からお慕い申し上げておりました。どうせまともには生きられない身です。夜が明けたら、私は、いかなる罰も受けましょう」
鶴丸と娘の距離がなくなる。その時、鶴丸の身体に熱い何かがほと走った。その熱に身が焼かれてしまうと思うほどに。
彼は、”愛”を知ったのだ。
「あ、」
ひとしきり口を吸いあったあと、ひとりでに鶴丸の手が彼女の臀部へのびた。なにも知らない筈であるのに、なにもかも知っている気がした。
ひととおり事が終わったあと、2人は身体を寄せ合ってぼそぼそと話をした。部屋は寒かったが、肌と肌をくっつけておけばじゅうぶんに暖がとれた。
「鶴丸、いま、どのような気分ですか?」
「どういう気分と言われてもなあ。俺は人ではないからわからんよ」
「人じゃなくても何にでも魂はあるわ。ここに。それにこんなにあたたかい」
「そうかい」
鶴丸の胸に頭を寄せ、脈打つ心の臓に娘は耳をすませる。心地よさそうに目をつむる彼女の頬を撫で、鶴丸も彼女の頭に自分の額を寄せた。
「鶴丸が私と同じ気持ちだったら、どんなに嬉しいでしょう」
「俺は、」
「いいの、言わなくても。ねえ、鶴丸。前に言ったでしょ、魂があるものは生まれ変わるって。私はきっと罰を受けるでしょうから、またこうして人に生まれ変わるには大変な努めがいるけれど、あなたにもう一度会うためだったら何でもするわ。だから約束して、待っていてくれると」
「俺だっていつかは朽ちるさ」
「でも魂があるのならまた何かに生まれ変わるはずよ」
娘は起き上がると、枕元にあった懐刀を手に取り、自分の髪をひと房切り落とした。それを紙でくるみ、寝転がる鶴丸に手渡した。
「持っていて。それがきっと目印になるから」
髪を切って渡すという行為がなにか知らなかった鶴丸は、ならば俺もと髪をひと房切って同じように彼女に渡した。娘は非常に嬉しそうに受け取り、涙をひとすじ流したが、それでも彼女は笑みを絶やさなかった。
▽
混濁していた意識がはっきりとする。最初に見えたのはいつもの天井で、部屋の明るさに鶴丸は朝が来たことを知った。懐かしい夢を見た。それは遠い遠い昔の記憶だ。それでも鶴丸にとって、けっして忘れることのできない過去だった。
「未練がましいな、俺も」
棚の奥に入っている包みを思い出しながら、鶴丸は笑った。胸がずくずくと痛むのは、一部が足りないからだろうか。
「さて、今日から一番隊の隊長だったな、起きるとするか」
広間まで出てくると、審神者の部屋のあたりが騒がしい。医療班のひとりである薬研が横を忙しそうに走り去ったので、その後ろ姿に「なにかあったのかい」と声を投げかける。すると薬研は振り返り「大将が血を吐いたまま動かないんだ!」と叫んだ。薬研の白衣には、血が点々とついていた。早足で審神者の部屋に向かうと、長谷部が寝間着姿の審神者を抱き起こし、しきりなにかを叫んでいるところだった。それが審神者の真の名であることは、後程知った。長谷部が揺する度に、ぶらぶらと白く細い手が揺れていた。
鶴丸は審神者の魂がもう殆どにここにないことを悟った。審神者を囲む中にそのことに気付くものももちろんいたが、誰もとめはしなかった。
審神者は介抱の甲斐があって一命をとりとめたものの、深い昏睡状態の身となった。誰かしらは彼女のもとに訪れ、毎日花を飾った。彼女の命は吹けば消える灯のようだった。
それをきっかけに賑わいがなくなった本丸は、不謹慎ではあるが鶴丸にとって至極退屈なものだった。審神者の霊力が安定しないので出陣もしばらく取りやめになった。いずれ新しい審神者が来るらしいという噂をたびたび耳にした。
長谷部は、最初は取り乱したものの、いまは落ち着いていた。こらえようもない悲しみを、胸の奥底に押しとどめているようにも見えた。審神者の元を訪れては、彼女の名前を呼んだ。それでも顔や態度には見せないのだから、彼はできた男だ。そんな長谷部に、彼と親しい刀たちは心配そうな目を向けるのだった。
審神者の容体は良くならないまま、また新しい審神者が決まらないまま、本格的な冬になった。いつまでも落ち込んではいけないと、少しずつだが、みな生気を取り戻しつつあった。
その晩、酒飲みたちが、久しぶりに宴をしようということになった。久々のことなので、これは面白そうだと鶴丸も参加した。光忠や日本号に無理やり誘われたらしく、長谷部も仏頂面で端っこに座っていた。いまだ残る喪失感をはぐらかすように宴は大いに盛り上がった。
「横に座っていいか」
宴も終盤になり、雪が散らつき始めたのに気付いた鶴丸は、縁側で、ひとり雪見酒をすることにした。幾分か経った頃、彼の背中に声をかける者がいた。長谷部だった。
「お、どうした。ここはかなり寒いぜ」
「構わん」
そういって腰を下ろした長谷部にお猪口を持たせ酒をそそぐ。特に何言わずそれに口をつけた長谷部を横目に鶴丸は問いを投げかけた。
「なにか俺に用があるんだろ」
「別に何もない」
「何もないっていうのにわざわざ俺のところには来ねえだろ」
「……いつも変わらんな。ふざけているように見えて常に冷静だ」
「褒められてるのかけなされているのか分からねえな、そりゃ」
「俺は駄目だ。冷静になろうとしても主のことを考えても心が騒ぐ」
「そりゃあお前さんが好いた人間だ。そんな風にもなるさ」
「違う!」
「認めろよ、楽になるぜ。いまの自分のためにも、今後の自分のためにも。それに、主のためにも。死んだら何もできないからな」
鶴丸の真意を確かめようと長谷部は彼を見た。彼は目を細めにぃっと笑うと、長谷部の手からお猪口を奪い取り、残っていた酒をごくりと煽った。
「俺のことを冷静と言ったが、そりゃあ違う。俺にはな、魂の一部がないんだ。昔好いた人間にあげちまった。あいた魂の隙間から、空気が抜けるみたいに溢れ出すんだ。こうやって身体をもらっても大事な一部がねえから、何をやっても何かがいつも欠けている気分なんだよ、実感がわかないんだ」
「ふん、お前にそのような人間がいたとはな」
「驚きだろ?まあ、俺もその時はよく分からなかった。確かにその気持ちはあったはずなのに、うまく答えてやれなかったんだ。その後悔がよ、いまも身体中に渦巻いてやがる。寝ても覚めても、だ。後悔ってのは厄介なもんだな、何年何十年何百年経っても考えるのはあの夜のことだけだ。だから夜が怖くていけねえ。神に近い俺と交わった娘は、死んだあと、重い罰に課せられたらしい。それでも、娘はもう一度会いに来ると言ってくれてな。俺はずっとそれを待ってるんだ。俺は娘に会うまで本当の俺を取り戻せないんだろうなあ。大事なもんはけっして他のもんで埋まらないもんだ」
だからな、長谷部、認めちまえ、そんで主の命が尽きるまで傍にいてやれよ、と鶴丸は続けざまに言った。昔に比べて神たちと人たちの交わりは緩くなっていた。どこかの本丸では、ある刀と審神者が婚姻を結んだという噂を聞いた。
「一生のうちに心の底から好いたものを見つけるのはそう簡単じゃないぞ。しっかしそれを人間ってのは、80年かそこらの寿命で見つけちまうんだから凄いよな、まったく。そういやな、真の愛に結ばれた恋仲は生まれ変わっても巡り合えるんだとよ。なんかの本で読んだんだ」
「お前さんたちのがまことの愛だったんなら、死んでもまたどこかで会えるさ」雪が庭にしんしんと降り積もる。明日の朝は、ここら一体が雪に染まるだろうと、鶴丸は鼻の頭を赤くさせながら思った。その横で長谷部は静かに肩を震わせ泣いていた。
審神者が昏睡状態から奇跡的に回復したのは翌朝のことだった。長谷部は審神者に自分の思いを告げ、審神者は泣きながらそれに答えた。本丸は一気に祝宴の雰囲気に包まれた。
審神者が審神者をやめ、長谷部を連れ療養生活に専念すると決まり、政府の会議は真剣に審神者候補を探し始めた。
例年よりも寒い冬が明けた頃、後任がやっと決まった。新しい審神者との初めての顔合わせになぜか鶴丸だけが呼ばれた。
はてさて何でだろうか、と思いながら審神者の部屋に入ると、前より幾分顔色が良くなった審神者が部屋の上座に鎮座しており、横には長谷部がどっしりと控えていた。審神者は笑みをたたえて言った。
「いよいよ私も引退する時が来ました。長谷部から聞きましたよ。私も長谷部もあなたにはとても感謝しております」
「俺は別に何もしてやいないさ。長谷部が決めて、あんたがそれに答えた、それだけだろう」
「あなたらしいですね。さて、すでに聞いているように新しい審神者が決まりました。きっとあなたに懐くでしょう」
「懐く?」
ほら、恥ずかしがらず出てきなさいな、と審神者が言うと背中からひょいと幼い少女が顔を出した。彼女の丸い瞳はきらきらと輝いていて、けれどもどこか不安そうだった。鶴丸はその少女にひどく驚いた。
「彼は、鶴丸国永です。きっと貴女をうんと可愛がってくれるでしょう」
「?」
少女には難しい名前だったようで、小首をかしげるだけだった。鶴丸は少女の両手を引いて顔をうんと近づけて言った。「俺の名はな、つるまるくになが、だ」彼女の瞳には鶴丸だけが、鶴丸の瞳には彼女だけが映っていた。
「”つるまる、くになが”」
鶴丸の中のなにかがぱちんと音を立ててはじけ、胸があふれんばかりのあたたかい思いで一杯になった。自分の一部がやっと戻った気がした。思わず抱きしめると、少女もおそるおそるといった様子で彼の白い髪を撫でた。
突然吹いた突風で庭の桜が部屋に入り込み、祝福するかのようにひらひらと彼らのまわりを舞ったのだった。