見過ごした愛しさを捕まえる
戦いは嫌いだ。戦乱に伴い自ずと手に入れる全ての物が嫌いだ。
傷付く仲間を見るのも、深傷を負い帰還した際我が主の顔に浮かぶ絶望の色も、誰かを斬り伏せる度に人の形を取ろうとも所詮は刀であるのだと突きつけられるようなあの感覚も。
刀の本分であるのはあくまで殺生であるという事は長い間この本丸の長として審神者を担う彼女自身よく理解していることだろう。それでも戦わせたくないと、傷付けさせたくないと暗に伝える様に切なげに揺れる彼女の碧玉の瞳を見るのは、正直とても苦手だった。人を傷付けるためだけに生み出された冷徹な白刃を持つ刀に初めて愛という感情を教えてくれた唯一無二の愛しき存在。恋仲と呼べる彼女との親しい関係は戦いで傷付いた心にとってとてつもない救いと安らぎだと、そう断言できた。争いの絶えない地獄の様なこの現世に呼び起こされなければきっと後の世もまた後の世も知り得ることはなかった、なんてなんたる皮肉であろうことか。
改めて今回共に厚樫山へと向かう刀剣達を見回した。
部隊長を勤める三日月宗近を始め、一期一振、鶯丸、鶴丸国永、蛍丸。全員希少価値の高い刀ばかりだ。それに加え全員自分よりも先に呼び起こされた者達なので必然的に練度の差も生じてくる。一番古株との差は激しいが、私より少し前に来ていた刀剣とは差と言ってもそう大きくはないが。
年長者の余裕と言うものか、三日月さんは悠々と「言ってくるとするか」と踵を返し、皆それに続く。厚樫山は何度も敵将を撃ち取っているからか、部隊の中に緊張感はあまり見られなかった。誰が誉を取るか楽しみだな、と。
「…行って参ります」
「はい。江雪さん、お気をつけて」
ふわりと薫る白梅の香が鼻腔を擽る。穏やかに浮かぶ微笑みと白梅が強く脳裏に焼き付いて、暫く離れなかった。
厚樫山に入り少し進んだ先に早くも現れた鎌倉改変阿津賀志山方面甲部隊に、咄嗟に刀を構えた瞬間驚くことに敵部隊が瞬く間に斬り捨てられる瞬間を全員見逃すことなく捉えていた。嫌な予感がする。歴史を変えるべく戦う存在でも歴史を守るべく戦う存在でもない完全な第三者。まずい、と思った時にはもう遅かった。
検非違使。
予想していたその一言は見事一致していたが何も嬉しくない。噂によるとこの検非違使という者は部隊で一番強い者に合わせて強さを変えるのだと言う。一番の強者は中々の古株である蛍丸だろう、そして一番練度の低い者は言わずもがな自分自身。一つ断言できることがある。私が今の練度で蛍丸と真剣勝負すると完全に負けるだろう、と。
殆どの人は検非違使の厄介なシステムは理解しているのか、自ずと集まる不安と心配げな眼差し。…しかし、検非違使はもう出現してしまったのだからどうしようもなかった。あぁ、本当に戦いは何よりも嫌いだ。
相手は方陣だったので有利な横隊陣の陣形で並び対抗するも、遠戦により飛んできた銃弾で瞬く間に多くの兵が潰れてしまう。誰かの舌打ちが聞こえた瞬間が白刃戦の開幕だった。先手は見事に奪われ薙刀の一振りに翻弄されながら軽傷、中傷の体で駆ける刀剣の中で検非違使の基準になっている蛍丸だけが唯一無傷で自分よりも大きい大太刀を振りかざしている。
刹那。
「江雪殿!」
誰の声かすら判断できなくなる程の鋭い激痛が迸り思わず膝を突き息を呑んだ。くらくらする。気持ち悪くて仕方がない。痛みで最早どこが傷口なのか分からない程熱くなった体に大量の血液が伝う何とも不快な感覚を初めて知った。本能で咄嗟に腹部を抑えたのできっとそこに刀を貫通させられたのだろうと冷静に思いながら、痛みにただひたすら堪えるしかないこの時間が酷く苦しくて。
蛍丸が凪いだ敵の生き残り一人が狙いを私に定めたらしい。慌てて私の元へ駆け寄ろうと走る隊員達の足音を聞きながら、思った。こちらには太刀と大太刀、向こうの生き残りは運悪く脇差で圧倒的機動の差。これは…破壊される、と。数秒にも満たないみじかい時間が異様に長く感じた。
湧水のように溢れる鮮血が地面に染み、それでもあまりに出血の勢いが強すぎてできた血溜まりに突き立てた江雪左文字は誰しもがもう使い物にならないと分かるほど刃がこぼれ、そして最も大きな罅が存在を主張していた。それでもこれも良いのかもしれない。
終わる。漸く解放されるのだ。争いの絶えない地獄から、やっと。
…愛しい女性を、一人遺して。
走馬灯のようにちらついたのは袖を口許に添え上品に柔らかく笑う人の子だった。審神者なるものに長年縛られ続け宛ら鳥籠とも言える箱庭の中で神を愛し神に愛された羞恥花閉月の可憐なる寵姫。護らねばならない、儚い存在。
「…」
まだ折れては駄目だ。せめて風前の灯火のような短い人の生を彼女が最期まで生き抜くまでは傍にいて護らなければいけない。そう思った瞬間、あれほど麻痺していた身体は紐解けくようにすんなりと立ち上がった。それはもう本当に驚くほどすんなりと。
「戦いは嫌いです…。しかし、むざむざ殺されるつもりもありません…!」
前を見据え、放った真剣必殺が敵の脇差を破壊した。驚く周り以上に驚きを隠せないでいると重傷の身に鞭を打ち過ぎたのか、どくんと激しい動悸に襲われ力が抜ける。江雪、と焦った声を聞きながら徐々に重くなる瞼を静かに閉じた。
安寧の闇が、優しく手招きしていた。
穏やかな気持ちで目が覚めた。覚醒と同時に流れ込んでくるあの検非違使との白刃戦が悪夢だったのではないかと思える程、静かで滑らかな目覚め。障子紙を透いてまで存在を主張する月に漠然と夜だと言うことが分かり、上半身だけを起こすと壁に凭れにこくりこくりと舟を漕いでいる主が自分自身である刀を大切そうに抱き締めていた。戦の爪痕を一切残さない程丁寧に手入れされた刀が、人を傷付ける刀が、血も死も知らない純朴な腕に抱かれている様子は嫌に滑稽だと言うのに、何故か本気で嫌だとは思えなくて。知らぬ間に育っていた恋情が心で暴れた。
「…貴女は風邪を引きたいのですか」
「ん…、こ、江雪…!」
小さく身動ぎをした彼女は薄く目を開け私を見るや否や慌てて飛び起きたが、刀だけは労ることを忘れずにいる掌が愛しい。一度気付いてしまった想いを自制するというのは中々難儀なものだ。私の方へ近寄った彼女は傍に刀を置き乱れていた長襦袢の重ね目を直すと佇まいを正した。背筋は美しく伸びているのにその顔は伏せられていて、少しだけよそよそしい。
「…ごめんなさい、痛かったでしょう」
貴女は何も悪くない。
「長い間あの合戦場に留まりなが敵将を打たせ続けていたのは紛れもない私の判断ミスよ。合わせる顔がないわ」
そんな言葉を聞きたいわけではない。
そっと彼女の頬に手を添え上を向かせると、月光に光る碧玉が悲哀に満ちていて。貴女にそんな顔は似合わない、そう思った。
「…私が謝罪の言葉を求めていると思っているのですか」
「でも、」
「初めは、諦めていたんです。」
紡がれようとした言葉に遮るように被せると渋々ながら押し黙ったことを好機と見なし、語っていく。あの戦場での出来事を一つ一つきちんと知って欲しかったのだ。他でもない彼女に。
全て話した。
破壊寸前に追い込まれ一度破壊への未来を享受したこと、その時貴女が過り護らなければならない人が、私の帰りを待ってくれている人が、いるのだから折れるまいとしたこと、それからは動かなかった体が至極自然に動いたこと、真剣必殺を繰り出したこと、そして倒れたこと、全て。
「…江雪は、争い事が嫌いで…いつも和睦を望んでいたわよね」
「えぇ、まぁ」
「眼前に迫った争いからの逃げ道を絶ってまでして、貴方は私を選んでくれた、の…?」
「そう、なんでしょうね。本当に無意識でした、あの時は。ただ漠然と護るべき女性が待っていると思ったたまけで勝手に体が動いていて。…いつの間にか貴女への想いがとても大きいものになっていたみたいです」
突如、勢いよく抱き付かれ勢い余ってそのまま布団へ倒れ込む。ありがとう、ありがとうと耳元で啜り泣く声に答えるようにそっとその小さな頭を抱き締め、静かに撫でた。
この人の傍に居られるのなら、この世も存外悪くないかもしれません、なんて。最初で最期の感情だろうな、と微笑んだ。
Fin.