リンドウの追憶
俺たちの主が死んでから、もう三日が過ぎていた。
さわやかな朝だった。障子や欄間を通して部屋に差し込む日差しは柔らかい。
目を幾度か瞬いて、意識を覚醒させた俺は思い知る。
また、朝が巡ってきてしまったことを。
――主が死んでからも、時間は動き続けるということを。
のっそりと掛け布団を退けて、上半身を起き上がらせた。壁に掛けられた時計は七時を指している。
主は人間だった。
寿命が尽きれば死ぬというのは誰もがわかっていたことだった。怪我もすれば病も患う。忘れていたわけではなかったはずだった。
なのにあの日、皆騒然となった。
死体を、いや遺体を最初に見つけたのは藤四郎兄弟の内の一人だった。秋田藤四郎。嫌な役目を引き受けてしまったもんだ。全く。アイツの元主の死に様を思うと居た堪れない。室内での緩やかな死など、二度と見たくなかったことだろう。
いや、きっと誰であっても苦しかった。主の息が止まっているだなんて、そんな確認したくもないことを、たった一人で確認するのだ。
まだ早朝の暗い室内で、横たわった体を見下ろして正座をして。必死に泣くのを我慢して希望に縋りつくように耳を口元へ近づける小さい背中が瞼の裏に見えるような気がした。
布団を押し入れにしまい部屋の障子を開け放つと、青い空が高く透き通っているのが見えた。綺麗な、秋晴れだ。この空を見たら、俺たちの主は何と言ったかな。空が高いね。なんて、確認するように口にするんだろうな、きっと。
秋田がですね! と隣で笑う姿が想像できる。ありありと思い浮かぶ。のに、それと同時にあの日の絶望した秋田の真っ青な顔が脳裏にちらつく。
白い布を被せられた主から部屋の隅で目を逸らし続けながら、嘘、嘘ですよね、主君……とうわ言のように繰り返す。なだめつかせる一期一振も同じく真っ青な顔だった。
普段はよく喋っている鳴狐のお供の狐は口を閉ざしたまま、そっと彼女に寄り添っていた。鳴狐の方はと言えば、珍しく自分から皆に話し掛け、冷静に指示を出していた。ぼうっと突っ立ていた鯰尾と骨喰はそれを受けて慌ててこんのすけを呼び出しに走った。
薬研は片膝をついて頭を垂れたあと、皆に伝えてくると駆け出した。
乱は大粒の涙を零ながら畳の上で崩れ落ちた。
前田は帽子を外して丁寧に頭を下げたまま、動こうとしなかった。平野は主の顔に白い布を被せ、それを無言で見つめていた。その場にへたり込んだ五虎退は虎たちを抱きしめながら、嗚咽を漏らしていた。
そんな様子を俺はただ、敷居の上に足を置いて呆然と眺めていた。体も心も金縛りで固まったままで、何もできず何も考えられなかった。
それを解いたのは、博多だった。ふいに肘で腹をどつかれて咳き込むと、じっとりと目を合わせ告げられた。
「側にいってやらんとっと」
赤い眼鏡の奥の青い瞳が悲しげに光っていた。
奇妙な静寂の中に響く鈴虫の声が、嫌に煩かったのを覚えている。
「ちくしょうっ!」
耐えきれずに、柱を力強く叩いていた。じんじんと痛む手を押さえながら、意味もなく首を振って何かを追い払おうとしたが結局何も消えてはくれなかった。
「おい、何をしゆーがか?」
顔を向けると、内番用の服を着た陸奥守が側に立っていた。抱えている籠の中には芋や何やらがずっしりと詰まっているようだった。
「畑仕事を、してきたのか?」
こんな時に、という台詞は喉の奥に飲み下した。
「……せっかく、皆で作ったもんじゃき、食べないともったいのーぜよ」
懐かしむように、柔らかい眼差しで籠の中を見下ろした。その目元に涙の跡があるのに気づいてしまうのは、何なのだろうな。
「残りは今、大倶利伽羅と燭台切が片付けちょる。おんしも、なんかやり残したことはやっとうせよ」
俺の肩を意味ありげに叩いていった陸奥守は厨の方へと向かっていった。
俺は反対方向に歩み出す。……正直、誰にも会いたくはなかった。そのくせ、誰かにだけは会いたくて仕方がなかった。
「ああ、主……」
ぴたりと足を止めて、口元に手を当てる。てっきり、自分の声が漏れたかと思った。
でも、違った。敷地の一角に設けられた井戸の側で、長谷部が蹲っていた。その髪からは、雫が滴り落ちている。長谷部は丁寧に顔を洗っているようだった。いや、冷水を浴びて正気を保とうとしているのかもしれない。
その場を離れようとした時に、瞳から零れ落ちた雫をみとめて、そんなことを思った。
そうやってできるだけ人気のない場所を求めて彷徨い歩いていたら、机を囲んで座っている鶯丸と三日月に呼び止められた。
「鶴丸じゃないか」
嬉しそうに手を挙げた鶯丸が軽薄に見えて、舌打ちがしたくなる。三日月ものんびりと微笑んでいて、その余裕は何なのだと問い詰めたくなる。
自身が気が立っているせいだということはわかるが、どうしても固い表情を崩せなかった。
「そら、ここに座れ」
空いている座布団が叩かれた。仕方なく俺はその上に胡座をかく。三日月が満足そうに頷いた。
温かい湯飲みを差し出されたが、手をつける気にはならなかった。
「皆が、苦しんでいる」
鶯丸が告げた。
「それをわからないお前ではないだろう。やめておけ」
「そうだな。俺たちは確かに主に顕在させてもらったが、その分の仕事は十分果たした。……妙な気は起こすな」
何と答えるべきか、わからなかった。
心配をしてくれているのはわかるが、だからといってなんだというのだろう。
「この思いがどれほどのものかも、知らないくせに」
思わず、毒を吐き捨てていた。
「鶴丸」
「やっぱり俺は、お前たちのようにはやれない。たとえそれが、主の意志であったとしてもだ」
呼び止める鶯丸の声を無視して部屋を出て、障子を音を立てて閉めた。
わざと足音を立てながら廊下を曲がる。誰にも、この思いがわかるはずがない。わかられてたまるか。
「そんなの、ただの自己満足ですよ」
廊下の先から聞こえた声に、足を止めた。宗三左文字が溜息を吐いていた。
「皆が一様に悲しいというのに、一人だけ我が儘を言うことが許されるのですか? ……そんな愚かなことをして、和を乱さないでもらいたいものですね」
「なんだと」
「だってあなた、特別にもなれなかったのでしょう?」
言い返す言葉がなかった。
俺は彼女と契りを結んだわけでも、体を重ねたわけでも、思いを通じ合わせたわけでもないのだ。
ただ、共にいたというだけ。
「知っているさ。俺は、臆病者だった。踏み込むことなんてできなかった」
唇をきつく噛み締めた。
「だがな、それのどこかが悪いっていうんだ!」
宗三を突き飛ばして、俺は外へと飛び出した。屋敷の外に行こう。誰の目にも映らない場所へ逃げてしまおう。
下駄も草履も履かないまま、裏山を適当に駆け上った。
驚いた顔をした岩融と今剣が視界の端に見えたが、それも無視して深くへ分け入っていく。俺を呼ぶ今剣の声を振り切って、どこまでもどこまでも。
そうして疲れて膝を突いた場所は、清らかな湖だった。
水辺にはリンドウが咲き誇っている。
「ここは……」
一度だけ、主と来たことがあった。
あれは、主が三十路を過ぎた頃だったはずだ。
咲き乱れるリンドウに笑みを浮かべていた。草むらに寝転がって、共に笑って。子供の頃に戻ったみたいだと、主は懐かしそうに呟いた。綺麗に色づいた落ち葉を手の平ですくって、投げ上げる。舞い踊る葉は鮮やかで美しい。
あれは本当に、穏やかな時間だった。
できることなら、あの細い手首を取って組み敷いてしまいたかった。思いを告げてみたかった。それをできなかったのは、一線を越えてはならないとどこかでずっと思っていたからだろう。
その線を越えてしまえば、二度と戻れない。
線の向こう側が幸せか不幸せかは関係ないんだ。
ただ確実にこちら側が壊れてしまう。
それを彼女は絶対に望んでいなかった。
刀と人が結ばれるということを。特別になるということを。
もし、それを知らなかったら、俺は彼女に迫っていたことだろう。たとえ最終的に拒絶されるにしても、言葉として形に残していたはずだ。
だが、俺は知っていた。知ってしまっていた。
今でも、はっきりと覚えている。
あれはまだ、主が二十かそこらだった頃だ。
初めて俺が重傷を負った時、彼女は珍しく怒った顔をしていた。手入れ部屋に俺を引っ張り込むと、口を尖らせたまま太刀を出せと手を伸ばす。いつもと違う調子に戦きつつ、太刀を差し出すと、彼女は無言で受け取った。
すらりと抜刀した彼女は更に顔を歪める。
「……曇ってる」
薄く残っていた血よりも、それの方が主にとっては重大な問題らしかった。
「まあ、使ったんだから当然だな」
「こまめに研磨しなきゃ駄目じゃない。ちゃんと申し出てよ。私だって全てを把握しきれるわけじゃないんだからね」
肩を竦めた俺に、主は容赦なく言う。
「そうだな。……でも、俺のことを特別に気に掛けてくれるかもって気を引こうとしてる気持ちもわかってほしいもんだな」
戯けて言ってみせる。
動揺してくれるだろうか、だなんてうきうきして。
でも、主はむしろ固く口を噤んだ。予想外の反応に、どうしたらいいかわからなくなる。
「そんなこと……」
泣きそうな声だった。
「そんなこと、できるわけがないでしょ」
絶望に溢れていた。なんで、そんなことを聞くんだと彼女の心は訴えていた。
「特別なんて、そんなのは許されやしないんだよ」
それは彼女の中で、紛れもない事実らしかった。
「……政府か」
思わず尋ねる。
彼女は目を伏せて、首を振った。
「許されや、しないんだよ」
ただ言葉を繰り返す。
「許したくも、ないんだよ」
自分が。……だろうか。
恋をするということを、誰かと特別になるということを、許したくない。許してしまうと、戻れなくなる。そういうことだろうか。
「…………」
それ以上何も告げようとしない彼女に、俺は何かを言おうとして、結局やめた。
代わりに深呼吸をする。
「悪かった。……それは、悪かったな。すまん。聞かなかったことにしてくれ」
それ以外、言う言葉が見つからなかった。
やっと顔を上げた主は、空虚な瞳を俺と交わらせると、もう一度俯いて太刀に顔を近付けた。意図がわからない俺は、中途半端な作り物の笑顔を消してじっと彼女の行動を待つ。
そうして彼女は何の躊躇いもなく、ハバキの竜胆に口付けを落とした。身体と太刀の感覚が繋がっているわけでもないのに、俺は痺れが駆け抜けたような感覚を覚えた。
何をするんだ。どうしてそんなことを。
「もう二度と、鶴丸国永が特別になりませんように……」
その言葉は、今も脈打って離れそうにない。
寝転がっていた俺は、そっと瞼を持ち上げた。
リンドウの花が、凪に揺らいでいる。
もう、帰るか。
ハバキの竜胆に口付けをした主の姿を思い出したら、ここで腐っているのが心底馬鹿らしく思えてきた。
いつだって、俺を正してくれるのは主に他ならない。
山を下り屋敷に戻った俺は、迷いなく一つの場所を目指す。
幸い、誰ともすれ違うことはなかった。庭から回っていったのが功を奏したのかもしれない。
俺は、主の部屋に足を踏み入れた。
たった三日前まで、この部屋に彼女はいた。
いつも通りの会話をしたはずだ。おやすみと言って、その場を去ったはずだ。それすらも自信がないくらい、普段通りに過ごしていて、翌朝、目を覚ました時に彼女はこの世にいなかった。
朝六つくらいだった気がする。
ばたばたと騒がしい足音と、ひそめてはいるものの慌てたような声の数々に目を開けた。着流し姿のまま、陣太刀台に置いてある太刀を持って縁に出る。
丁度その時、慌てて朝支度をしてきたような格好の一期一振が目の前を通って、過ぎ去る前に呼び止める。
するとアイツは俺の顔を見て絶句して、すみません、鶴丸殿は部屋で待っていてください。とだけ言って俺を振り払った。
早足で立ち去っていく一期一振は明らかに異常で、俺は事態の重要さを理解した。正確に言えば、この時はしたつもりでいた。
部屋に戻り、急いでいつもの装束に袖を通す。
この時は、何故一期一振が部屋で待っていろと言ったのかさっぱりわからなかったが、今となって思えば気を遣ってくれたのだとわかる。余計なお世話でしかなかったがな。
そうしてすぐに後を追った俺も、絶望を味わうことになる。
障子の開け放たれた部屋の前に立って、粟田口の面々が泣き喚くのを呆然と見た。頭がこれ以上ないほど痛くって、胸がどうしようもないほど苦しくって、目眩がした。耳鳴りのように響く鈴虫が煩くて、足元から匂う古びた畳の香りが鬱陶しくて、吐き気がした。
もう、やめてくれ。頼むから。
博多にせっつかれてようやく敷居を越えたが、途端纏わりついてきた死の気配に耐えられなくなって身震いをした。
空気がもう、違うのだ。重くて、湿っていて、息が苦しくなる。
よろよろと膝を突いた。五虎退や乱がはばからず泣いている声が遠くに聞こえて、俺も泣けばいいのか、とは思った。
だが、泣き方がわからなかった。今まで自分はどうやって感情を表現していたのだったか。どうやってこの身体を操っていたのか。わからなくなっていた。
朝の闇の中に紛れる、触れたら壊れてしまいそうな首筋の白い肌と扇のように広がって溶けていきそうな黒い髪。
死んだなんて、嘘だろう。
そう思うことが既に嘘だった。言いようのない死の気配は確実にそこにあって、俺はただ、彼女に触れることもできずにそこにいた。
結局は鯰尾と骨喰が連れてきたこんのすけの指示の元、手際よく主の遺体は運ばれていった。
その最中でも多くの者が涙していたが、俺はやっぱり泣けなかった。動くこともできなかった。口を開くことすらも。
役立たずの俺を皆は早々に見切りをつけ、一人部屋に放置して出ていってくれた。
だから俺は一日中、彼女の部屋を独り占めにした。
周りの騒がしい音を捉えつつ、ほとんど身動きもとらずに寝転がって、ぼうっとしていた。
気がついたら昼になって、日が落ちきて夕方になって、あっという間に夜になった。暗闇の中、とりとめもなく彼女のことを考える。そうしたら、朝がきてしまった。
一睡もしなかったなと、小鳥の鳴き声を耳にしながら思う。
そろそろ、起き上がってやることをせねば。
一晩かけて主の死が事実であると認めた俺は、厨に向かい朝食作りに取りかかった。暫くして歌仙がやってきた。目を白黒させた歌仙に笑いかけ、昨日は迷惑をかけたからな、とだけ言った。
一応合点がいったのか、歌仙は一度しっかり頷いた。
なら、今朝は美味しい食事を作ろうか。昨日は朝と昼は作らず、夕食だけ簡単にそうめんを作ったのだけれど……案の定ほとんど誰も喉を通らなくてね。
苦笑する歌仙に、仕方ない、あれは堪えるさ、とできるだけ軽い風を装って答えた。
「無理はしなくていい。君が一番苦しかっただろう」
そんなことを言えるのは、きっと歌仙くらいのものだ。
「……ありがとうな」
「何、お安いご用さ」
そうやって笑ってみせれる歌仙が、たまらなく強く眩しかった。
その後、大和守安定などもぱらぱらと手伝いに来てくれて、全員が俺に驚いていた。昨日一度も姿を現さなかった俺のことを心配してくれていたようで、丁寧に声をかけられた。とりあえず一人一人に大丈夫だと返していく。それが一日続き、何かするというよりも無事を報告するだけで夜になった。押し込まれるように自室の布団に追いやられ、無理矢理に寝かされた。
翌日起きて思ったのは、意外と寝られてしまうもんなのだなということだ。そんな自分を嫌だなとも感じたが、昼間は書類まとめに追われてそれどころじゃなくなった。慣れないことをしたせいで、気づいたらまた夜だ。疲れ切った俺は今度こそぐっすりと眠って、今朝になってやっと苛立つことができるようになっていた。
感情を表すことさえ上手くできないなんて、お笑い草だ。俺はどうも、皆のようには次に進めないらしい。
だからこそ、ここで立ち止まってみるのも一興だろう。
気持ちを整理する時間は、そろそろ終わりだ。
「鶴丸国永殿?」
背後からしたこんのすけの声に、俺は慌てて振り向いた。
「どうした。何か、あったか?」
取り繕いながら問いを返す。
「いいえ。随分深く物思いに更けられていらしたのが心配になって……」
「あ、ああ……そうか。でも俺は大丈夫だ。気にするな」
「…………そうですか。では鶴丸国永殿、頼んでいた書類の方は準備していただけましたか?」
頷いて腰を下ろすと、懐から幾つか折り畳んである紙を取り出して机に並べていった。
「これが死亡届で、こっちが死体火・埋葬許可申請書。あと医師の死亡診断書だ。念のために住民票の抹消届も用意した」
人が一人死ぬというのは、刀剣男士が一本折れるのとはわけが違った。面倒な手続きが逐一必要で、この世から消えたのだとうことを、それらが明確に突きつけてくる。これは、ある意味で儀式なのかもしれない。
戒めの、儀式。
「どうもありがとうございます。鶴丸国永殿。して、あなたはいかがなさいますか? 他の刀剣男士は全員、彼女の妹につき従うと言っておりますが。以前から伝えられていた望み通りです」
「俺は……」
答えは、最初から決まっていた。
言い出せなかったのは、彼女の死を受け入れ供養するだけの時間が欲しかったからだ。
「ここに残ることは許されないんだったな」
「はい。ここは主様の力によって保たれていた空間です。半ば本物であり、半ば偽物であります。この建物は消え失せ、いずれまた別の審神者がここの担当になるでしょう」
「ならば俺は、ここで死のう」
表情を変えずに告げることができたと思う。
「鶴丸、折れるなんて、言わないで」
「俺は刀だぞ」
「それでも。……死ぬって、言ってよ」
そんなわがままを、笑ったのはいつだった? もう、よく覚えていない。彼女との思い出の数が多すぎて。全てを思い返したくても、できやしない。思い出せるようなものはとっくに反芻しきってしまっている。
本当は記憶の奥底を巡ればもっともっと数多の思い出があったはずなのだ。なのに、なぜかほとんどが色褪せていて、今はもう、明確なのはこの思いくらいのものになってしまった。
「わかりました」
こんのすけはただ、頷いただけだった。
二日後、全員の見送りを終え、一人取り残された俺は屋敷の広間へと足を向けた。
死に場所としては、きっと悪くないはずだ。初めて会ったくらいの頃はここでよく主を驚かせたもんだ。
……酷く、懐かしい。
それももう、今日で終わりになる。
彼女は一体、何を思って死んだのだろう。いや、老衰だ。死ぬとは思っていなかっただろう。なら、何を思って眠りについたのだろう。彼女には訪れなかった「明日」をどのように望んでいたのだろう。
考えたって、わかりはしないことだ。
そうこうしている内に辿り着いた広間には、堆くリンドウが積み上がっている。その中心へと分け入って、俺は花々に埋もれる。
なぜだか、体が少し震えた。己である太刀を胸元に抱え込む。今更、死ぬのが恐くなったとでも言うのだろうか。そんな笑えるようなことがあって堪るか。
その時、ぽつりと涙が手の甲に落ちて、気が付いた。そうか。ただ俺は、悲しかったのだな。
それを理解した瞬間、涙が止めどなく溢れ出した。もう一度、彼女に会いたい。会って、他愛もない話がしたかった。
年老いていく彼女を再び見守っていたい。全く同じで構わないから、あの時間を繰り返していたい。
……そんな、叶えることの許されぬ欲望が渦巻いて胸が痛かった。
早く、早く彼女の元へ。
いや、刀である俺が彼女と同じ場所にいけるはずはない。ならせめて、これから上がる炎を見ていてほしい。
「君への弔いだ」
こんのすけは、きちんと火を放ってくれたらしい。いつの間にか、幻影であった本丸は消え去り、辺りは炎に包まれていた。跡形もなく、燃やし尽くしてくれよ。頼むから。無様に燃え残ってしまうなんて、格好つかないからな。
天敵の炎に焼かれながら、天を見上げる。
最期に見えた空は、リンドウのように青かった。