友情
ミュージカルが観たい、と長年の友人が言った。一体、どういう風の吹き回しであろうかと少しの間だけ無言で唸っていたら友人はじとり、と睨んできた。
「珍しい、とでも思ったのか?」
「それはまあ」
ソファに座り、ぱらり、ぱらりと雑誌をめくりながら今しがた淹れてきたばかりのインスタントコーヒーを口に含んで「不味い」と長年の友人である長谷部は言った。
私はミュージカルやオペラが好きなのだがこれまで長谷部に「ミュージカルを観に行かないか?」と誘っても「バカらしい」と言われるだけで一度も一緒に観に行ったことはない。彼もそういったものに興味はないらしく、ボンヤリと作品のタイトルくらいは知っていても詳しくは知らないようであった。その為、別の友人と観に行っていたのだがどういう訳だかミュージカルに興味などないであろう長谷部が「ミュージカルが観たい」といったのである。
「連れていってくれ」
「金は私持ちかよ」
当たり前だろう、とでも言いたげな目線を長谷部は寄越した。なんて図々しさだ。長谷部とは長い付き合いだが彼は何時だって高慢で図々しく、ケチである。今日だって突然、家を訪ねて来たかと思えばコーヒーを要求してきて人の家で勝手にくつろいで淹れてきたコーヒーに文句を言うのだ。これでいて顔が良く、仕事の出来る高給取りだから当然のように女は寄ってくる。それだけならいいのだが、長谷部は何人もの女と付き合い、とっかえひっかえと言うのが正しいのだろうが、女で遊んでは捨てているのだ。なんて、男なんだろう。だからと言って長年の友情にヒビが入る訳ではないのだが、偶に長谷部の家の近くまで行くと修羅場になっている事が多く、もう彼の家には行きたくない。
「それでいつ行く?明日か?」
「チケット取れないだろ。そもそも何を観るんだよ」
「…ミュージカルだろう?」
「お前はバカか」
長谷部はときたまこういう馬鹿なことを言う。本気で言ってるのか、冗談なのか分からないことを言う。多分、本気で言っているのであろう、と長年の友人としての勘がそう言っているのだがあまり認めたくない。
「お前の女に連れて行ってもらえばいいじゃないか」
名案だ、とでも言うように私がいうと長谷部は不貞腐れた。女の前では笑顔を崩さず、大人でカッコイイ長谷部のクセに長年の友人である私の前ではすぐに不貞腐れる。女の前での努力を少しは私の前でもしてもらいたいものだ。
「なぜ、あいつらに連れて行ってもらわないといけないんだ」
「いや、お前の女の誰かならアメリカだってフランスだってすぐ行けるだろう?チケットだって最前列が取れるさ」
そう言いながらインスタントコーヒーを口に含んだ。ああ、苦い。少し粉を入れ過ぎたのかもしれない。
「そんな面倒なこと誰がするか」
じとり、と睨みながら長谷部は言った。先ほどと同じ目だ。
「面倒って、ミュージカルが観たいんだろ?」
「…ああ」
「じゃあ、別にいいじゃないか」
何か問題があるか?どんな金で誰と観てもミュージカル自体の素晴らしさは変わらんさ、と私が言うと長谷部はイライラした様子で不味いと言っていたコーヒーをごくごくと飲んで案の定むせていた。ああ、馬鹿らしい。
長谷部は以前、「女は使うためにある」と言っていた男だ。全世界の男と女を敵に回しそうなセリフではあるが長谷部が言うと「有言実行しているな」と納得するだけなので特に殺意も何もわかない。彼は前々から不遜な男であったから慣れてしまったのかもしれない。そんな彼が女を使わず長年の友人である私に頼んでくるのは彼のセリフに反しているではないか。そう言えば、いつだかにクラシックコンサートに行きたい、と言われ連れて行ったことがあった。当然のように、金は私持ちであるが。その時、長谷部は行きたいと言った割にボレロの演奏の時に眠ってしまった。とろけそうな演奏であったし、同じリズムの続く曲であるから仕方がないとは思ったがいくら何でも始まって早々に眠ってしまうとは思ってもいなかった。眠っていたくせにコンサートが終わると眠っていたのがバレていないとでも思っているのか「良かったな」なんて言うのだ。一体なにが良かったというのか。椅子の座り心地であろうか。それとも、コンサート中に見た夢であろうか。
未だにむせている長谷部の背中をさすってやり、ようやくむせるのが収まった。
「まあ、君が私の趣味であるミュージカルに興味を持ってくれたことは素直に嬉しいから機会があればチケットを取っておくけど、今すぐ観たいっていうならDVDで観ないか?」
幸いDVDはいくつか持っている。「今日の所はそれで勘弁してやる」なんて偉そうなことをいうがいつものことなので「はいはい」と返しただけであった。
CDとDVDがみっちり詰まっている棚の前に二人で並びながらどれにしようかと選んでいた。
「もう少し整理できないのか?」
嫌味ったらしく長谷部は言った。
「出来ていたらこんなことにはなってないさ」
私が住んでいるマンションは単身者専用のマンションで部屋はさして広くない。当然、物を置くスペースは限られてくるため立派なDVDラックなんて置く余裕はなく、近くのホームセンターで買ってきた安物の三段のカラーボックスに全てのCDとDVDが詰められている。入らなくなったものは余裕のある隙間に置いてあり、整頓された美などとは程遠い。
「長谷部くんが立派なDVDラックを買ってくれたらDVDたちも喜ぶさ」
「誰がそんなことするか」
こちらを見ようともせずにDVDを物色してパッケージを見ては戻す、という作業をかれこれ10分ほど繰り返している。
「なにか見つかった?」
「いや」
長谷部が持っていたのはオペラのDVDだった。椿姫とカルメンである。
「聞いたことがあるな」
「ああ、それは有名だな。カルメンの闘牛士の歌なんかはテレビでよく使われてるよ」
長谷部がどういったミュージカルが観たいのか分からない為、とりあえずDVDの整理をしている。
二つのDVDのパッケージを興味深そうに長谷部は眺めていた。
「お前、ミュージカルが観たいんだろ?持っているDVDはオペラだぞ」
「…オペラとミュージカルは何が違うんだ?」
不思議そうに長谷部が聞いてきた。彼は物しりではあるからオペラとミュージカルの違いくらいは知っていると思っていたがそうではないらしい。彼が謙虚に聞いてくるのも珍しく感じ、素直に答えることにした。
「クラシックとポップスぐらいの違いだ」
「お前、趣味にしてる割に分かっていないんじゃないか」
胡散臭そうにさぐるような目でこちらを見てきた。心外である。趣味としているのだから語り始めてしまったら歯止めが利かなくなるのだ。オペラとミュージカルに違いが数秒で終わるものではない。語り始めてしまったら最後、長谷部が怒るまで口を動かすのを止めないだろう。
「…そんなことより観たいのが決まったのかよ」
「何かおすすめはないのか?」
そう言われうーん、と少し考え込んでから一つのDVDを取り出す。
「オペラ座の怪人なんてどうだ?」
「聞いたことがある」
「有名だからね」
長谷部は持っていたオペラのDVDを元の位置に戻し、オペラ座の怪人のDVDを探し始めた。
「おい」
「なんだ」
「同じタイトルのDVDが幾つかあるんだが」
5本のDVDを持ちながら長谷部は言った。だから何だというのか。
「ミュージカルと映画と脚本違いとキャスト違いだな」
「はあ?」
理解できないとでも言うように返してきた。長谷部はこういうジャンルにはここまで疎いのか。大概のことをソツなくこなし知識もある彼に少しだけでもまさることの出来る分野があったことに少しの優越感を覚えたが私がそれを口にすることはない。
「オペラ座の怪人は知っているだろう?」
「ああ」
「お前が今持っている5本のうち4本は脚本が同じだ。一番有名なんじゃないか。観たことがあるとしたらそれだと思う」
そういうとまた理解できないとでも言うような顔をした。
「もう1本は?」
「脚本が違う」
「それだけか」
「内容も全く違って、私個人の感想としては他の4本とは正反対だな」
全く意味がわからないと言うように長谷部は目線を逸らした。考えるのが面倒になってしまったようである。5本の内の1本を手に取り、これにするか、というと面倒そうに長谷部は頷いてさっさとスプリングのきかないソファにそそくさと座ってしまった。DVDプレイヤーにDVDをセットして、適当なドリンクとお菓子を出して、テーブルの上に並べると長谷部は不思議そうにこちらを見てきた。
「食うのか」
「うん」
「ミュージカルが好きなんだろう。ちゃんと観ておきたいんじゃないか?」
「家で観るときはだらけて食いながら観るのが一番なんだよ」
「そういうものか」
DVDが再生されようとしているとき、私は一時停止ボタンを押した。その行動に長谷部はさっさとしろ言うような目線を送ってきたが再生はしない。
「何なら光忠も呼ばないか」
そう言うと長谷部の顔は途端に歪んで怒りはじめた。あからさまに嫌な顔をしている。光忠と長谷部はそんなに仲が悪かったであろうか。
「何故、アイツを呼ばないといけないんだ」
「何故って、光忠とは一緒にミュージカル観に行くし、人が多い方が楽しいだろう?それに今日一緒に遊ばないか、って誘いが来ていたんだけど先週も光忠と遊んだし仕事がきつかったから断ったんだ。なのにお前とDVD観てるって申し訳ないだろう?」
長谷部は先ほどよりも不満そうに、確実に怒っている。一体なにが気に入らないのか私にはわからない。
少しの沈黙のあと長谷部が口を開いた。
「そんなにアイツがいいか?」
長谷部がそういった時、何故彼がこうも怒っているのか少しだけ分かったような気がした。そんなことは勿論言わず、言葉を返す。
「長谷部は私の親友だよ」
「…当たり前だ」
フン、とそっぽを向いて視線を逸らしたがそれが彼の照れ隠しであることは長年の親友である私からすればいつものことである。
「長谷部、ミュージカル観るんだろう?」
「…さにわがどうしてもと言うから観てやるだけだ」
顔を真っ赤に染めながら言われても説得力がないぞ、と思ったが勿論口には出さず、「はいはい」と答え、一時停止していた画面が動き始めた。