落日
夕陽より早くとあるじは先を急ぐ。
こんな日は鶯張りの廊下も煩わしい。
途中で刀剣たちの引き留める手を振りほどいてしまったが、大事な用事がそこにあった。
「蜻蛉切!」
「…主。他の者に人払いを頼んでいたはずですが」
「どうして。どうしてなのです」
足がもつれそうになりながらたどり着いたのは手入れ部屋。
蜻蛉切は障子ごしに声をかけてきたあるじに静かに応える。
あるじが手当てすれば、治癒が早いのは蜻蛉切も承知である筈だった。
「どうしても、です。お叱りなら後日…そうでなければ、どうかこのまま」
「…この屋敷に私が入れない部屋があるなんておかしい。違いますか」
「お聞きわけください」
子供のように駄々をこねても襖は開かない。
以前、あるじが慎重に策を練ったときは忠臣そのものに「御英断です」なんて言っていたくせに、自身はどうだ。
命令無視の孤軍奮闘、総大将戦。
勝利して帰って来られたからいいものの、今はこうして手入れ部屋から出られずにいるではないか。
「…今の自分は見苦しい姿をしているのです。主のお目を汚すわけには」
「構いません、開けますよ」
「主!」
引手に手をかけて力を込めるが、障子は貼りつけたように閉じたまま、向こうから塞がれている。
あの蜻蛉切が、本気で自分を拒んでいる。
そう思うと、あるじはそうなりたくもないのに涙声になってしまう。
「蜻蛉切…。あなたが怪我を負ったと聞いて、私は……」
「…主」
「勝手でしたね。本当に、頼りない主君でごめんなさい…」
呆れられることに絶えられそうもなく引き返そうとしたその時、障子が開いた。
見下ろす眼と見上げる眼が合う。
一目でも見えて嬉しい。
そのはずなのにあるじは思わず身が強ばった。
「自分も、一早く貴方にお会いしたかった…」
普段は父兄の慈愛さえ感じさせる瞳が、今日は空に線を描くような眼光を放っていた。
赤紫色の長い髪は解け、力を持ったように肉体に伝い纏う。
斬られた敵兵たちも最期にこの顔を見たのだろうか。
血が枯渇し、好敵手を渇望してしょうがない武者の眼。
「その、眼は…」
「いずれは治まります。……今は良くないと、ご忠告は既に申し上げましたな」
腕を強くひかれた。
蜻蛉切はあるじを自分のほうへと引き倒し、後ろから覆うように抱え込む。
陽だまりのようにあたたかく、器を感じさせる大きく広い体の全て。
それらが今日は私欲に走り、あるじを捕えて離さない。
「主…。あるじ、様…」
首筋の薄い皮膚の上を甘噛むように歯が滑り、熱く濡らされていく感触に全身が震えた。
飢えた獣の真似事だ。
膝の上ではろくに抵抗もできないので、顔を背けると今度は耳を貪られた。
分厚い手に上から触れてみたが、指一本引きはがせそうにない。
忠臣から施される未知の感覚にあるじは眩暈が止まない。
激しい戦闘の後は気分が高揚して興奮するものだとあるじも知っている。
いつもより乱暴なこの振る舞いは、恐らく昼間の戦闘が関係しているのだろうと、あるじは霞む思考回路で考える。
蜻蛉切はあるじの目から見ても高揚していたし、その言葉と何より彼らしくもない行動がそれを決定付けていた。
これ以上はきっとこわい。
そう思っているはずなのに、頭の奥の痺れに全てを任せた。
どれくらいの時間が経ったのか。
息をのむ声が聞こえた直後、あるじは持ち上げられ、畳の上に下ろされていた。
「……っ申し訳、ございません!! 自分は、何ということを…」
「……いい。いいの、蜻蛉切…」
「良い訳がありません! この無礼は改めて…お怪我をさせてしまう前にどうか…今日はこのままお帰り下さい。」
押し殺したような低い声。
廊下の床が軋む音が近づいてきていた。
そうは言ってもあるじのほうも今の行為ですっかり骨を抜かれてしまっていた。
それでものろのろと畳を圧すようにしてどうにか立ち上がる。
部屋を出る前に振り返り見ると、蜻蛉切の息は荒く、自身を抑えこんでいるようだ。
自己嫌悪の念にかられているのか、手が自身の顔を覆っていた。
よろめきながら歩いている間に誰かとぶつかりそうになり、何か声をかけられた気がしたが、気に留められない。
きっと明日になれば、彼が詫びてくるだろうから、それを自分が赦せば良い。
その後は元通り、善き主と善き近侍に戻ることができる。
(決して全てが嫌ではなかったと、伝えるべきだろうか)
首も頬も体全てが熱い。
残る感触に、心音だけがうるさく響いた。