ヒロイズムの美學
我ら刀剣を率いる審神者は年端もいかない女の童である。童ではあるが、審神者としての能力は申し分なく、幼いながらも中々に聡明であった。己の役目を理解し、何をするべきかを知っていた。そして、童ながらに彼女は察していた。自分の存在は刀剣達にとって、頼り甲斐があるとは言い辛いものであるという事を。
故に彼女は、その未熟な部分を埋めようと彼女なりに考えた。大人のように、振る舞おうと努めた。が、それでもやはり彼女は幼く、子どもである事実は変わりようがなく、努力にも限度というものがあった。
「おう、どうしたんだいお姫さん。愛らしい顔が台無しだぞ?」
彼女が本来いる筈の世界、時空、其処から切り離された場所にある武家屋敷。その奥まった所に、彼女の逃げ場は存在していた。城で言うところの奥御殿、彼女とその家族の寝食の為の部屋から少し歩いたところにある見事な楓の木―――その木の裏側が、彼女の弱音の掃き溜めだ。
半泣き顔で袖から顔を上げた小さな審神者殿は、言葉とも嗚咽とも取れる声を洩らし、そして俺の名を拙く口にする。
「つるまる、鶴丸…」
「なんだい、お姫さん」
「わたし、ふがいない?」
「不甲斐ないだなんて、そんな事はないさ。お姫さんはよくやってる」
目線を合わせる為にしゃがみ込み、よしよしと頭を撫でてやる。そうすると今度は半泣きが本泣きに変わって、ぽろぽろと雨粒のような涙を両目から零し始めた。
「でもね、聞こえるの、視えるの。あれではだめだな、って。わたしが子どもだから、だめなのかなあ」
頼りないかなあ、必要ないのかなあ。やっぱり父様や母様のようなひとが、いいのかなあ。
ぽろぽろと、桃色の唇から零れ落ちる嗚咽に紛れた弱音と、楓の根元に吸い込まれていく雫。
幼い彼女の比較対象となるのはいつだって両親だ。
彼女の両親は刀鍛冶と装飾技師であり、俺達刀剣の付喪神の依代となる器を父親が打ち、培った経験や能力を移す為の宝珠を母親が拵えている。一家揃って刀剣に携わっているが故に、彼女の存在は両親と比較される事がままあるのだ。
それぞれの役割の方向性が違う彼らをそうして比較するのは本来理にかなわないのだが、そう割り切り良く考えるのが難しい事もまた事実だった。
子どもと大人という括りは、隔たりが大きい。
彼女の両親は既に成人し、体も心も出来上がっている。父親など、刀鍛冶にしておくには惜しい軍略や謀略を語る程だ。しかし彼女はまだ童で、体も心も未熟であり、人としての経験も浅い。聡明といえど、軍略に明るい訳ではない。元は人に使われる側のモノであった頃があるからこそ、一部の付喪神は考えてしまうのだ―――この人間では己を使いこなすことはできないだろう、と。
(まあ、そりゃそうだわな)
否定は出来ない。しようとは思わない。
何故ならば、斯く言う俺も恥ずかしながら初対面の時は少々落胆してしまった、つまり「そう思ってしまった」側だからである。
彼女が俺を喚び、依代へと降ろした際、それに立ち会っていたのは彼女とその父親であった。喚び出された側だからこそ、与えられた霊力を以て彼女が自らの主であるとは理解出来たが、それでも少なからず、(ああ、使われるならこの男の方がいいなァ)と、思ってしまった事は否定のしようもない事実だ。
無論だが、そんな思いは彼女の近侍を務め始めた事によってとうの昔に霧散してしまった。今は寧ろ、少なからずとはいえ仕えるべき主にそのような軽んじた思いを抱いてしまった自分を恥じている。かように真摯で、いたいけで、懸命な主を敬愛せず愚弄する真似をしただなんて、笑い種にして片付ける事など到底できない失態だ。たとえこの刃生を終える日が来ようとも、この失態だけは口外など出来やしまい。幾ら周囲を引っ掻き回している自覚がある己でも、その辺りは弁えているつもりである。
しかし、そんな失態を犯した自分だからこそ、こうして弱っている彼女を労り、支え、尽くす事が出来るのだとも思っている。労りたい、支えたい、尽くしたいと身の底から思えるのだ。肉を得た事によって御し難い激情や衝動に振り回されるようになっても、この心の臓の部分から込み上げる温もりを伴った感情は手放したくなかった。
赤くなった目元を、痛まないように加減してそっと拭う。人差し指に触れた温かな雫から、じわりと温度が身に沁みゆくのが心地良い。
「子どもだとしても、君の能力は審神者として充分過ぎる程のものだろう?何せ、審神者になって最初に喚び出したのが、この俺なのだから。俺が何なのか、お姫さん、知ってるだろ?」
そうだ。
彼女が審神者として初めて喚んだ付喪神は―――この俺なのだ。
「…つるまる、くになが。平安の刀匠、五条国永の打った太刀」
「その通り。平安時代に打たれてから今日まで現存する一口だぜ?最初にこの俺を喚んだんだ、お姫さんは凄いよ。最初に喚び出された時は魂消たさ、こんなに小さな子がとんでもない力を持っているなんて!ってな」
これは本心だ。あの時は本当に、吃驚したのだ。このような童が己を喚ぶとは思えなかった。そして、その時の俺はまだ刀寄りの思考をしていたので、使い手としての未熟さに落胆してしまった―――彼女は刀剣の使い手としては未熟で不相応であるが、仕える主としてはこれ以上にない存在だという事に、気付かないで。
ふくふくとした童の頬を両手で包み込んで、手加減しつつ引っ張ってやる。主に対して無礼だと思う輩もいるであろう、けれどこれは、恐らく彼女にとって最も受け取りやすい形の、好意の表し方だ。
「お姫さん、あるじ、君は胸を張っていいんだ。泣かなくていい…とは言わん。けれど、ひとりで泣くくらいならば、俺の胸で泣いてくれ」
そう言って、腕の中に閉じ込めてやると、彼女は嗚咽を殺しながら俺の胸元に縋りついた。
この子に頑張るな、と言ってもきっと止めはしないのだろう。あの刀鍛冶に似て一度決めた事はやり遂げようとする質のようだから。故に俺に出来るのは、彼女の弱い部分を、子どもの部分を、こうして受け止め、守ってやる事だ。それしか出来ない現状を歯痒く思うが、どうにも出来ないものがある事くらいは永い時の間に悟ってしまっている。そして、それしか出来ないのならば、それを全力で行おうと決めている。全てはこの、腕の内に在る愛しき主の為に。
どれくらいそうしていただろう。長かったような短かったような、或いは数瞬だったろうか、ぽつりと、「…鶴丸、甘い」彼女が呟くようにそう零した。
「そうだなぁ、確かに甘いかもしれない。でもお姫さん、甘いもの好きだろう?」
「それはちがう甘さだと、思う」
「ははは、偶には変わり種の甘味もいいだろう?」
「……うん、」
もぞもぞと身動ぎしたかと思うと、ぐずぐずと鼻を鳴らし目元を真っ赤にした幼い主が顔を上げた。
彼女のこんなに弱々しくいじらしい姿を知っているのは、初期に喚び出された俺のような古参の刀剣達と、彼女の両親くらいだろう。新参の奴らに彼女のこういった一面を見せたらさぞや驚くのだろうが、この愛らしい一面を古参の面子で独り占めしてしまいたい気持ちの方が勝っていた。
驚きよりも仄暗い悦びを取ってしまう自分が滑稽で仕方ないが、この屈折した優越感と充足感が肉を得たが故の感情なのだと思うと堪らなくなる。ああ、なんて厄介で手放し難いものなのだろうか!
目尻に残っていた涙の粒を親指で掬い取り、その流れでむにむにと両頬を揉んでやってから手を離す。それにしても、なんともまあ、可愛らしい顔が台無しだ。
「はは、真っ赤だなあ。濡らした手拭いを持ってこなければ」
「…そう、だね」
「少しはすっきりしたか?」
「ん。だいぶ。さあ、きりかえ、切り替え」
紅葉のような手のひらで、ぱちり、自らの頬を叩く姿がなんともまあ愛らしいが、それを口にしたら恐らく臍を曲げてしまうだろう。上向きになりつつある気持ちをへし折る趣味はさすがにないので、その様子をなんとなしに眺めている、と。
「鶴丸、ありがとう」
わたし、最初に来てくれたのが鶴丸でよかった。
彼女は、ふにゃり、泣き笑いのような顔でそんな事をのたまった。思わず、ああ、と胸の内で思わず感嘆の声を上げてしまう。
その言葉にどれ程俺の心が揺さぶられるか、この童にはきっと分からないのだろう。刀風情から付喪神になった己がこうして今世で必要とされる事が、ただひとりの主の為に己を振るう機会に今一度恵まれるという事が、どれだけ心を震わせることか。
御物として献上されるまで様々な人間の元を転々としてきた。刀というモノであり続けてきた。そんな俺を、刀としてではなく一存在として必要としてくれている事が何よりも嬉しいだなんて、きっと彼女に言っても理解する事は難しいのだろう。理解して欲しいとは思わない、いや、そもそもそんな事は言う必要すらない。小さくあどけなく愛おしく好ましいこの主を、己が身と心を以て守れるのならばそれでいい。
それだけで、充分過ぎる程に、しあわせだ。