言葉よりも饒舌に
「ぬしさま、折り入ってお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
審神者に与えられた執務室にて。
その青年姿の付喪神は、自らの主君である女童の前に膝をついて恭しくこうべを垂れていた。主君への敬意を表すかのような彼の姿に、つい先程まで読物をしていた童、あるじはぱちくりと目を瞬かせ、内心首を傾げるしかない。なぜ、彼が此処にいるのだろうか。わたしに畏まって頭を下げているのだろうか。それ自体が疑問であった。
こうべを垂れている付喪神の名は小狐丸という。彼があるじの活動拠点に来たのは比較的最近であるが、複数の部隊を組んで様々な時代へと行軍する刀剣達のうち、練度の上がり具合が他より少々早かった。それに伴ってか、ここ数日は誉を獲得する機会も増えている。それは彼の優秀さ、強さを物語るには充分な実績であり、審神者である彼女もその実力に注目していた。
それ故に、今回の行軍では小狐丸の更なる練度向上を図るべく、彼を第一部隊に試験的に加える事になっていたのだが、もしやこの編成に不備があったのだろうか。或いは何かしらの進言なのだろうか。
彼女はそこまで考えてから、彼の頼みとやらを聞く事にした。
「その願いとは、一体なんでしょう、小狐丸」
が、小狐丸の口から紡がれたそれは、あるじの想像していたものとは大分かけ離れたものであった。
「ぬしさま、此度の出陣にて誉を持ち帰ったあかつきには、私の頭を撫でてはくれませぬか?」
「……は、い?」
思わず、あるじは首を傾げてしまう。このひとは、いったいなにをいっているのだろう。
『誉を持ち帰ったあかつきには、私の頭を撫でてはくれませぬか』?
つまりそれは、言葉通りに捉えても良いのならば、今回の行軍で小狐丸が誉を得たら、彼の頭を撫でろということなのだろうか。それとも何か含みのある、遠回しな何かの進言なのだろうか―――?
「頭を撫でてはくれませぬか?」
「…頭を、ですか」
「はい、頭を、です」
どうやら後者ではないらしい。念を押すかのような、言い聞かせるかのような言葉の中には、彼にとって重要であるらしい「頭を撫でる」という動作指定が存在する。
「…ええと、」
頭を撫でろと、小狐丸がそう言っているのは聞いた。しかし、理解が出来ない。何故彼がそのような事を言い出したのか、そのような要望をあるじにしてきたのか、彼女には皆目見当がつかない。そんな事を言われたのは、今日が初めてだった。小狐丸の口から、というのもあるが、そもそも付喪神の口からそのような要望が出るとは、あるじは思いもしなかったのである。
「…ぬしさま、」
けれど、こうべを垂れていた小狐丸があるじを伺うように鬼灯色の双眸を彼女へと向けた時。
そこに込められた懇願の色を感じ取ってしまった彼女は、その要望を拒否する事など出来なかった。
「……。わか、りました」
どうしてそんなことを望むのか、あるじにはその意図が理解が出来ず疑問ばかりが残る。けれど、拒否は出来なかった。大きな身体をした、青年姿の付喪神―――小狐丸が自分よりも格段に歳上の、そして上位の存在であるとは彼女も理解している。ヒトと神との立場も弁えている、そのつもりである。
しかしながら、あるじが彼の要望を受け入れた理由はその弁えからくるものではなく。
「この小狐丸、必ずや誉をぬしさまに捧げます故……」
「う、うん…頑張って、ください」
深々と頭を下げた小狐丸の背後で、大型犬…いや、大型狐の尾がブンブンと嬉しそうに振られている幻覚が見え隠れしているからであった。
言葉よりも饒舌に
「嬲りますよ」
「痛いですよ、ほら!」
「噛まれると痛いですよ…野性ゆえ!」
かつて奥州藤原氏と鎌倉政権が戦を繰り広げていたという阿津賀志山。其処では、ヒト同士が争う訳でなく―――付喪の狐が舞っていた。
爪と牙の代わりに己が依代たる刀を振るい、歴史改変主義者の放った付喪神を斬り捨てる。普段の芝居掛かった振る舞いもあってか、それは彼の為に用意された演目、最早独壇場と言っても大差ないのではなかろうか。
そんな絶好調の新参付喪神の姿を眺めながら、あるじに喚び出されて以来第一部隊の長を任されている最古参の刀剣・鶴丸国永は「なーんか、彼奴、やけに張り切ってんなあ」と他人事のように呟いて、迫り来る脇差の異形を一振りで斬り伏せた。
「やっぱ鶴丸もそう思うか?」
鶴丸の声を拾い上げたのは、鶴丸と同じく第一部隊の固定面子である古参の刀剣・獅子王だ。彼もまた、己が依代で異形の形をとる付喪神に止めを刺した後である。この付近に放たれた付喪神は粗方倒し終えていたが、まだ刀を鞘に収めるには早かろうと二口とも抜き身の依代を手に言葉を交わしていた。
「まあな。凄まじく乗り気で調子が良いってのは分かるぜ。彼奴の練度ではこの戦場を乗り切るのはちょっと難しいんじゃないかと思ってたんだが…これじゃ古株の俺達が形無しじゃねえか」
「だーよなあ、さっきっからアイツに誉掻っ攫われてるしよ。ちぇっ、面白くねー!」
この時代の阿津賀志山は、今のところ審神者の力で遡れる時代の中では最古の場であり、同時に様々な歴史分岐に関わる場所でもある。自ずと歴史改変主義者達が異形の付喪神を放つ量、頻度も増えるので、この場を制し歴史を守るには審神者の戦術、技量と共に、付喪神の練度、戦闘経験が求められてくる。
そして、その阿津賀志山でこうして与太話をする余裕がある程度には、鶴丸と獅子王は練度が高く、戦慣れをしていた。この第一部隊にはそんな二口を始めとした指折りの精鋭、古参の刀剣が集められているのである。
その精鋭を差し置いて、小狐丸は颯爽と誉を攫っていくのだ。獅子王が面白くないと思うのもまた道理というものであろう。しかし鶴丸は、少々違った。
『どうして』
『練度が高いとは言えども自分達には未だ及ばない小狐丸が』
『ああも調子が良く、やけに張り切っているのか』
それが、とても気になる。
ふむ、と顎に手を遣りその理由を探ろうとする鶴丸の傍らで、獅子王が「俺らも負けてらんねーぞ鶴丸!」と大きく声を上げた。その方を見れば、獅子王は刀片手に目を鋭くして前方を睨み付けていた。臨戦態勢に入る隊員を目に、鶴丸は一旦詮索を止め、「おやおや、新たな敵部隊のお出ましかい」と獅子王に倣う形で自らも得物を構え直した。
「獅子王も誉狙いでいくのか?」
「あったりめーじゃん!俺だって姫に褒められてーもん。鶴丸もうかうかしてっとアイツにいいとこ全部持ってかれちまうぞ〜」
そんじゃお先!と悪戯に笑い軽やかに駆け出した獅子王は、小狐丸に負けじと敵陣に突っ込んでいく。「これで終わりだ、必殺剣ッ!」お決まりの台詞と共に薙刀の異形をバッサリと斬り次の獲物に狙いを定めて腕を振るう獅子王の姿は見ていていっそ清々しい程だ。
「…まあ、こうなるわなあ。あーあ、獅子王が張り切るもんだから他の奴らまで火ぃ付き始めたぞ……」
こりゃ誉の取り合いだな。
がりがりと、空いた左手で頭を掻きながら鶴丸は苦笑する。獅子王の勢いに感化された他の隊員も、小狐丸だけに誉を渡してなるものか、獅子王に続けと言わんばかりに次々に敵へ飛びかかっていく。こうなってしまうと流石に敵方へ同情してしまう。傍から見れば、いい年した野郎共の手加減容赦一切無しのおとなげない殲滅行為なのだ。練度を極めた付喪神が張り切って得物を振るっているという時点で、最早察して然るべきである。
まあ、それもこれも、愛する主君に褒められたいが為なのだ、仕方がない。
「こりゃあ俺も負けちゃいられねえな、ははは!」
そして鶴丸もまた、主君に労いと労わり、そして褒美の言葉を頂戴したい「おとなげない」野郎共のひとりであった。
結局。
その日の第一部隊の行軍は、おとなげない付喪神達による大立ち回りにより損失の殆どない"大成功"に終わるのである。
「小狐丸、只今戻りました」
あるじの前には、膝をついて恭しくこうべを垂れる青年姿の付喪神が一柱。既視感を覚える光景である。行軍の成果や損失の報告を簡潔に済ませていく小狐丸と、それを聞き相槌を打つあるじ。
一点だけ違うところがあるとするならば、それは小狐丸、彼の背後でゆらゆらと揺れる狐の尾の幻覚を、あるじが自らの意識から拭い切れなくなってしまったことだろうか。
「…ご、苦労様です。此度の行軍、損失もほとんどなく…無事に帰ってきてくれたこと、嬉しく思います。あり、がとう」
あるじは懸命に顔を引き締めて、冷静であろうと努めた。その所為でほんの少し、言葉が詰まってしまったのは些細な失敗に過ぎない。
あるじが話す最中も、小狐丸は心なしかそわそわとしていた。まるでおやつを前にした子どものような―――おもちゃを前にした飼い犬のような、様子であった。
そんな彼を、もふもふわしゃわしゃしたいだなんて、あるじは考えていない。あわよくばぎゅっと抱きしめてよしよししたいだなんて、そんなことは……そんなことは、考えていない、いないのだ。
(おっきい犬みたい、だなんて。そんな、失礼なこと…考えちゃ駄目、なのに)
あの時の、小狐丸の懇願するかのような眼差しを思い出すと、あるじの手はどうにも彼の髪へと伸びそうになる。尻尾のように結わえられた一房を優しく梳いたり、頭上で獣の耳のように左右に跳ねている部分を目一杯撫でつけてみたい。豊かな後ろ髪に身体を埋め、もふもふしてみたい。そんなことを考えてしまう。
無論、主従の契約を結んでいようと相手は神属である。そんな罰当たりなことを考えるのが失礼だとはあるじも重々承知している。そう、分かっては、いるのだが。
「して、ぬしさま。約定通り誉を持ち帰りました故、」
あるじの見間違いでなければ、小狐丸の目は期待の色を含んできらきらと輝いていた。ああ、やはり彼の背後に尻尾が見えてしまう―――期待と喜びにぶんぶんと揺れる狐の尾が、どうしても見えてしまうのだ。
「……わかりました。
小狐丸、こちらへ…来てください」
「はい、只今」
あるじの呼びかけに応えて、小狐丸は彼女の目の前まで距離を詰めると先程と同じように膝をつきこうべを垂れる。彼女の手が触れられる高さまで下げられた頭部で、獣然とした癖毛がまるで誘うかのようにゆらゆらと揺れていた。
「…ご苦労様、ありがとう」
あるじは意を決して、或いは我慢を止めて、小狐丸の頭に触れた。柔らかくふんわりとした質感の毛に小さな手のひらを乗せ、よしよしと労わるように撫でてみる。彼の髪の触り心地の良さは、今まで彼女が触れ合ってきた数少ない獣…鳴狐のお供のキツネや五虎退が連れている仔虎達とはまた違った、長毛種の獣を彷彿させるそれであった。彼女は知らず知らず、ほうと感嘆の息を吐いて、無心で彼の髪に触れ続けた。
耳のように跳ねた毛を撫でつけたり、側頭部の毛に指を差し入れ梳いてみたり。小さな手のひらで出来る限り一通りの撫で方触れ方梳き方で、あるじは小狐丸の髪を堪能する。
「……ふふふ、ありがたきしあわせ」
丁度頭の天辺を撫でている時、小狐丸が至極嬉しそうな顔をして、幸せそうな声音でぽつりとそう零した。あるじはその声に手を止めようとしたが、「ああ、どうぞそのまま、続けて下さいませ」と眉根を下げた顔で頼まれてしまったので、言われた通り撫で続ける。そうしながら、彼女は、「…撫でられるの、好きですか?」と、彼に尋ねてみた。
「ぬしさまに触れていただける事が小狐の幸せにございまする」
これを褒美と言わずして何と言いましょうか。
普段は涼しい顔をしている小狐丸が、はにかんだ笑顔でそんな事を言う。あるじはそんな彼を見て、心臓のあたりがきゅうっと締め付けられるような心地になる。切なさや痛みからくるものなどではなく、愛らしいものを見た時、触れた時に走る―――所謂「キュンときた」時のそれだった。
大きな身体をしていて、自分よりは確実に歳上で、男の人の姿で、神様で。そういった良心的なものの遮りをものともせず、あるじの口から心からの言葉と微笑みが漏れた。
「ふふ、小狐丸、かわいい…です」
小狐丸は、あるじの言葉にきょとりとした。そして至極不思議そうに首を傾げて、「私が、可愛い…?」と、これもまた不思議そうに呟いた。その表情と声音には若干の困惑すら伺える。そんな彼の表情が見れたことがおかしく、そして嬉しくて、彼女は首肯しながらもう一度かわいいです、と言った。
「ぬしさまの方が愛らしくあらせられるのに…」
「…褒め言葉ですか?」
「勿論ですとも」
「そう、ですか」
はい、とにこやかに頷かれ、今度はあるじが困惑する番だった。これまで小狐丸と言葉を交わした回数はそこまで多くない。こうして今、彼に触れて言葉を交わして、漸く彼のひととなりを漠然と掴みかけているというのに、まさか真正面から愛らしいなどと、ましてそれを褒め言葉などと言われるとは思わなかった。
そして、彼女の頬がじりりと熱を持ち始めるのを、至近距離にいる彼が見逃す筈もなく。
「おや…頬が染まっておりますな。桜のような色をして、愛らしい」
「み、見ちゃダメです…」
「ふふ、恥じらう姿もまた愛らしい」
羞恥やら嬉しさやらで頬を赤くするあるじに追い討ちをかけるかのようにそんなことを言って、小狐丸は微笑んだ。彼には案外悪戯っぽいところもあるらしい。あるじにとってその一面は新たな発見であり、そしてその発見が、純粋に嬉しいと思えた。彼との距離がほんの少し近付いたかもしれないと、感じたからだ。
(こうやって、みんなと近付けたらなあ…)
古参の刀剣達はあるじの人となりを知っているので、彼女も気安く言葉を交わせる。しかし、迎え入れる付喪神が増え始め、両手の指で数えられなくなった頃をきっかけに、彼女は今のような「より審神者らしい振る舞い」を意識し、言動を抑えがちにしていた。故に、古参の刀剣達以外とこうした触れ合いや他愛のない会話をするのは、久し振りだった。それが嬉しくもあり、少々寂しくもある。
ああ、まだまだ大人のようには振る舞えないなあ。そう、自嘲しつつも、あるじはこの一時の触れ合いと会話を噛み締めるかのように、味わうことにしたのであった。
―――まさか、これを機に、小狐丸が幾度となく誉を持ち帰り、その度に「頭を撫でてくださいませ」と尻尾の幻覚を携えてあるじの元を訪れることになるとは、思いもしないで。