夢の男
「このことは、絶対に忘れないぞ…」
眉間に皺を作り、膝の上で握った二つの拳が震えている。彼はどうやら馬当番がお気に召さなかったようで、恨み言をぶつくさと私に言い放った。畑の時も彼は同じようなことを口にしていた気がする。これは僕の仕事ではないだろう、と。着物が汚れてしまうから嫌だなんてまるで女の子だ。
「君、なにがそんなに可笑しいんだい?」
「内緒です、きっと口にしたら歌仙さん怒るだろうから」
「それはどうだろうね?怒らないかもしれない」
「嫌ですよ、そうやって歌仙さんいつも声を荒げて怒るじゃないですか」
「それは君が僕のこ、」
失礼致します。
障子の木の縁が叩かれる音がして、歌仙兼定は言いかけた言葉を喉の奥へと押し込めた。彼は体を少しだけ後ろに捩じって、なんだい、と障子の向こう側へ声を掛ける。
「長谷部さんでしょう、どうぞ」
「はい、御談笑の最中に大変失礼致します」
「君、なにも気配を消すことはないんじゃないかい?」
いい気持ちがしないな、と不愉快そうに言った。長谷部はというと、歌仙の小言に対して瞼をぴくりとも動かさず丁寧に障子を閉める。長谷部さん、座って下さい。そう声を掛けないと彼は腰掛けないことを知っている。朱色の座布団を一枚押入れから取り出そうとすると、長谷部は「主、俺はこのままで構いません」と咄嗟に私に向かって手を伸ばした。長谷部は私に手間を取らせることが大嫌いだ。俺が、俺が、と私のために全てをやってのけようとする。まるで己が姫か王女であるかのような扱いである。それが私はなんだか可笑しくて、いつも笑ってしまうのだ。
「歌仙さん、長谷部さんは私を常識のない人にさせたいみたいです」
「い、いえ主!俺はそのようなつもりで言ったわけでは!」
「おや、己の主の顔に泥を塗るのは雅じゃないなあ」
「…ッ歌仙!」
「冗談ですよ、長谷部さん。それに歌仙さん、顔に泥はあなたですよ」
陶器のように白い肌についた泥を懐に入れていた赤い布で拭ってやると、「おや、使ってくれているのかい、嬉しいねえ」と目を少し細めて笑った。
「主、それは?」
「歌仙さんが万屋で買ってくれたんです」
「…そうですか」
「それじゃあ主、僕はこれで失礼するよ」
君はこの座布団を使うといい。彼は言い残すようにして障子を閉めた。
パタン、と閉ざされた自室は私と長谷部だけになり、歌仙と居たときとはまた違った空気が漂う。畳の上で立ったままでいる彼に私は再び座るように声を掛けて、盆に乗った逆さまの湯呑みに手を伸ばした。「あ、」と彼は私に何かを言おうとしたが思い直したように口をつぐむ。きっと真面目な彼のことだから、先程の私の冗談を鵜呑みにしてしまったのだろう。八分目まで注いだ黒の湯呑みを両手で持ち、彼が正座する拳三個分くらい前にゆっくりと置いた。
「少し熱いので気を付けて下さい」
「すみません」
「こういうときはありがとうって言うんだと思いますよ」
長谷部さんは本当に面白い、小さく孤が描かれた口元を片手で隠してくすりと笑った。それが彼は気に食わないのだろうか、少しむっとした表情をするので「ごめんなさい」と謝ってしまう。
「それで、私に何かお話があるのでしょう?」
「はい、遠征での成果を主にご報告を、と」
長谷部は懐から巻物を取り出し、紐を引っ張った。墨で書かれた字をゆっくりと読み上げる。私は「ありがとうございます」と礼をし、自身の湯呑みに手を伸ばした。湯呑みから伝わる温かさを手の平全体で感じながらも、口元まで運び、喉へとゆっくり流し込む。緑茶を楽しむ私を見てか、彼もまた口元へ茶を運んだ。
「美味しいです、主」
「ふふ、そうでしょう?」
湯呑みを撫でるようにして持ち、指先まで温まった私はほっこりとしたように笑う。
「歌仙さんが私に買ってくれたんです」
パリン。
突如、陶器が割れる音が二人の空間に響いた。突然のことに驚いた私は音の元へとすぐに視線をやる。菫色に広がる黒の破片は私が先程注いだ湯呑みだ。じんわりと茶が菫色に染み、濃くなっているのが分かる。
そして驚いているのは私だけではなかった、彼もまた不意打ちに合ったような驚愕の色を見せていたのである。驚きで置かれた間をすっ飛ばして慌てて立ち上がり、長谷部の元に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか長谷部さん!」
「…少し力の加減を間違えたようです、未だ人の身に慣れていないようで」
「火傷してないですか?どこか切ってないですか?」
「主、俺は大丈夫です。それよりすみません、大切な湯呑みを」
そんなどうでもいいことを口にする長谷部は私に心配しないでくれと言う。けれども、せめてもという思いで茶で濡れた着物を拭おうと懐から先程の赤い布を取り出そうとすると手首をガッと掴まれた。真っ白な手拭に包まれたその力強い手は震えている。
掴まれた意味も分からず、思わず彼の名前を口にしようとしたが、力強く手首を掴むその顔があまりにも殺気で漂っており情けないことに私はひゅうひゅうと喉の奥を鳴らすことしかできなかった。額を流れる汗はこの状況が危険だと、危ないと伝えているように思える。
「…い、痛いで、す」
ひどく怯えながらもやっとの思いで口にすると、彼は少し力を緩めた。その隙に彼からパッと手首を自身の胸元へと運ぶ。白かった手首に逃がすか、と言わんばかりの痕がくっきりとついていた。
「主、」
目の前にいるのは間違いなく長谷部さんだ。あの長谷部さんで間違いない。声だけで分かるのだから。今はそれがひどく恐ろしい。私はまるで怯えきった子羊のようであるに違いない。逃げ出したい恐怖に駆られた私は、頼りのない震えた二本の脚で立ち上がった。
「…ッい…!」
左足の裏にちくりとした痛みが走る。何か小石のようなものを踏んだようなあの感覚。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です、これくらい舐めとけば治り、」
最後まで言わせてくれ、そう思う前に彼は私の左足首を持ち上げた。…嗚呼、まさか、そんな、嘘でしょう。
「やめ、てください…!」
私の声なんてまるで聞こえてないみたいに傷口に赤い舌を這わせる。すこしざらりとしたその舌は、ねっとりと私の傷口を何度も、何度も何度も舐めた。これを卑劣と言わないでなんと言うか。羞恥心とじんわりとした痛みが私を襲う。それに耐えて必死に身体をびくびくとさせている私を見る長谷部には、先程のような殺気は感じられずどこか面白がっているように見えた。
誰か、誰か助けて。誰か、
「…か、歌仙さッ、…ッいッ?!」
持ち上げる手に強い力が入った。舐めるだけだった舌はまるで傷口を抉るかのように、舌先を使ってぐりぐりと押す。痛みに涙を流し、お願いだからやめて、と懇願しても彼は動きを止めなかった。
何も言わない長谷部は何を待っているのか分からない。どうしたらこの行為をやめてくれるのか、それも分からない。分かるのは、もうすぐ燭台切が夕ご飯を呼びにここへ訪れることだけだ。
「主、主、」
ああくそったれ、この声は間違いなく長谷部さんだ。今まで目にしてきた、あの忠実で真面目で私のことを一番に慕ってくれていた男は誰だったのだろう。目の前で私の足の裏の傷口を舐める彼は、憎悪と羨望と嫉妬に満ち溢れていた。私は未だ、この状況を信じられないでいる。