蒔かれた種について
一期の目前には、彼女の白い首と、浮き出る鎖骨と、彼女がいつも、寝巻きに使っている着物の襟元。
一期を繋ぎ止めているのは、理性という名の、それだろうか。
一期は意を決し、彼女の瞳を見上げた。
酒でいつもより幾分か虚ろな瞳には一期一振、自身が映っている。一期と目が合うと彼女は口元に弧を描いた。
挑発していて、それでいて、一期の削りに削られた理性、というものをさらってしまうような。
いやらしい、という表現の似合う笑みであった。
事の発端は三日月宗近の呟き、それから鶴丸国永のなんてことはない、提案であった。
いつものごとく、三日月宗近は本丸の縁側で外を眺めていた。その姿はこの本丸では当たり前のことであり、一期も、彼のその姿はなんというか、とても様になる、とまで思っていた。
その日、三日月宗近が「桜がきれいだ」と言った。ぽつり、と。一言、独り言のように呟いたのだ。
その言葉を聞き流すことをせず、反応したのが鶴丸国永であった。
「そうだなぁ。こういう日は、夜桜でも見ながら、酒でも飲みたいものだな。なぁ、主、あんたは酒が飲めるだろう。どうだたまには。俺たちと酒を飲むのは初めてじゃないか?」
そう言って、我々の主、この本丸の審神者である彼女に提案したのだ。
彼女は、堅苦しい、という言葉がまったくといっていいほど似合わないような、いい意味でも悪い意味でも自由、そのような枠にとらわれない人であったので、2つ、3つほどの返事で鶴丸国永の提案に賛成した。
そうして、主と我々の刀のいくつかがその酒の会に参加したのだ。
近侍を務めている一期も、短刀の弟たちを寝かしつけて、他の刀たちとは少し遅れてそこに交わった。
次郎太刀には、「お固そうなアンタが酒なんて、意外だねぇ。」などと言われたが、酒は嫌いではない。
人のかたちになって、主に初めて酒を飲ませてもらった時、少しクセがあるとは感じたものの、なるほど、なかなかに惹かれるものだと思った。
よって、酒はむしろ、好きかもしれない。
以前、これは美味ですなぁ、と彼女に伝えると、彼女も酒を好んでいるようで「でしょう。まぁ、飲みすぎるのは、良くないんだけどね」というアドバイスとともに、どこか得意げな顔をされたことがある。
それからは何度か、彼女と共に酒を飲む機会が増えた。
一期は、酒に強い、と胸をはっていえるほど飲んだことはないのでわからないが、どうやら弱くはないらしい。
彼女も、一期と同様なようで、いつも自我を保てる程度の酒量を飲んでいた。
しかし、その日は違ったのだ。いつもとは違う顔ぶれに、人数、実ににぎやかであった。
一期と2人で酒を飲むときは、ここまでに賑やかではないものの、他愛のない世間話、弟たちの話などをして楽しく飲んでいた。
いつもと違う、そのせいか、彼女の酒を飲む量がいつもよりも多いとは感じていたものの、一期もその楽し気な雰囲気を崩すまい、と止めることはなかった。
そして、後悔した。
止めなかったが故、彼女は酔いつぶれてしまったのだ。
一期は、酔った彼女を、彼女が寝室に使っている本丸の、奥にある部屋に運び、それから布団の上に寝かせた。
ありがとう、という彼女のお礼の言葉とともに、「一期」と名前を呼ばれた。「はい」と返して、彼女を見た。
いつもより色づいた頬に、うるんだ瞳に、舌がまわりきっていない、あどけない声。これはまずいな、と一期は思った。思った、だけであった。
「一期」
もう一度、名前を呼ばれる。
次は返事をしなかった。いや、できなかったのだろう。
彼女がゆっくりと起き上がる。
「ね、こっちきて」
彼女が自分の隣をとんとん、と叩いた。ここにこい、ということであろう。
しかし、一期はそうしなかった。一期の頭の中で「危ない」という警報が鳴ったのだ。
一期が、ではなく、彼女が。彼女が危ないのだ。
一期は必死だったのだ。一期は、所詮刀、というものから、おとこ、というものに変わった。一期はおとこなのだ。自分の中に、欲が、おとこの欲があることを知っているのだ。
動かない一期に痺れをきらしたのか、彼女の方から一期に近づいた。
彼女の細い手首が、手が、指先が一期の顔に近づいて、頬にふれ、それからゆっくりと顎にかけてなぞる。
彼女の指は冷たかった。
一期の顔にふれていない手は、一期の肩に添えられた。それから、身体を傾けられて、一期は後ろに倒された。
彼女は一期の上に、一期の動きを封じるように、のしかかるように、そこにいた。
そして、冒頭である。
一期は抵抗しなかった。
咎めることも。
あとは彼女に任せてしまいたかった。全て、タガの外れた彼女の所為にしてしまおうとした。
彼女と二人きりで酒を飲むことに、どこか優越感をかんじていたのは。
近侍という立場を利用して、酔いつぶれた彼女を部屋まで運んだのは。
これから先のことを望む、おとこの欲だったのか、はたまた、一期一振自身の欲だったのかはわからない。
いや、わからないのではない。
彼は、知らないふりをしているのだ。