罠
割り当てられていた畑当番は難なくこなせたのだから、やはりこれは体調が悪いせいではないのだろう。
それなのに体の心の臓が埋まっている辺りがぎりぎりと痛み、呼吸もろくにできやしなかった。腹のなかではなにかどす黒いものが渦巻いているような、妙な心地がして気分が悪い。
今は誰にも会いたくないと鍬を片付けたあと一人そのまま農具倉庫に籠ったはいいが、そこの薄暗い環境がまた腹に渦巻く妙な心地を増長させているような気がした。
「どうにかなっちまいそう……」
こんな感情、知らなかった。苦しい。苦しくて息が詰まる。
些細なことでいちいち揺らぐような「感情」なんてものがある人の体は、どうも厄介で複雑な造りをしているらしい。ずっと槍のままでいればこんな思いは知らずにいられたのに、下手に肉体を持ってしまったばかりに。
「ちくしょう、なんだってんだ」
むしゃくしゃした思いのまま、つい足元にあった桶を蹴り飛ばす。幸い農具倉庫には他に誰も居なかったおかげで、行いを咎められることはなかった。
俺がおかしくなってしまったのは間違いなくあるじのせいだ。
あるじが蜻蛉切と、よりにもよって蜻蛉切なんかと二人きりで万屋に行くから。他の奴、刀ならまだよかった。それなのに槍の蜻蛉切を選ぶなんて。
同じ槍として、俺と蜻蛉切の間には天と地ほどの差があった。戦場で剛勇を振るい前の主に天下無双の名をもたらしたあいつと、戦でろくに使われることもなくただの飾り物として過ごしてきた俺と。どちらが優れているかなんて言うまでもない。そんな蜻蛉切を、あるじは供に選んだのだ。まだ連れていったのが刀の誰かであれば、こんな風に思うことはなかっただろうに。
嬉しそうな顔をして蜻蛉切の手を引いていた姿が頭から離れない。あんな顔は今まで見たことがなかった。
「俺じゃだめなのかよ」
ちくしょう、ちくしょう。うずくまって顔を覆うついでに前髪をぎゅっと握った。毛の根本が痛んだが、それでも俺の頭は冷えないまま。
あるじが蜻蛉切となにかあったらどうしよう、そんな想像ばかりが止めどなく溢れては俺のなかを埋めていく。
そうだ、これは嫉妬だ。はじめて知ったそれは、自分で抱いておきながら醜いと思えるものだった。別にあるじは俺のものってわけじゃないのに、皆の主なのに、どうか俺だけを見て、特別だと言って欲しいと願ってしまう。それはいけないことなのだろうか。
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「ただいまー」
日暮れ前になってようやく待ちわびた声が聞こえ、あのあと結局籠る場所を自室に移していた俺は一目散に廊下を駆け玄関へと飛び出した。
焦燥感丸出しの顔を隠すのも忘れて、あるじの後ろに控えた蜻蛉切から荷物を奪い取る。手伝う、となんとか絞り出した声はやはり嫉妬にまみれ、掠れていた。
「ありがとう、それじゃああとは御手杵に頼もうかな。蜻蛉切は下がっていいよ、お疲れさま」
「は、では自分はこれにて」
にこりと笑った主に一礼すると、出来のいい忠臣は素直に下がる。そこには未練もなにもなく、単なる臣下としての姿でしかなかった。
そうだ、俺と違って優秀な蜻蛉切は馬鹿な間違いなど起こそうはずもない。少し考えればわかることなのに。
玄関に残されたのは俺とあるじの二人。一人嫉妬に駆られていたという気まずさから、あれだけ待ち焦がれた主の顔を見ることがどうしてもできなかった。やり場のない視線を買い物袋へ流していると、不意に荷物を掴む俺の腕に細い指が添う。
「お留守番寂しかったね、御手杵」
皆の主であるはずの彼女はついさっき見せたものとはまるで違う意地の悪い笑みを浮かべて。
「あ、あんたまさか……」
指先はそのまま俺の腕を辿り、いたずらに胸を這う。じれったいその感覚に肌が粟立つのがわかった。
まんまとやられた。いかにも清廉ななりをしているくせに、これは存外ひどい女だ。俺にこうして妬かせるためにわざと蜻蛉切を供に連れて出たっていうのか。
もしかするととんでもない女に惚れてしまったのかもしれない。にたりと微笑むその姿に、思わずさっきとは別の意味で頭を抱えた。